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ヨハン・クライフ

 今年12月のトヨタ・カップの欧州代表はバルセロナFC。このチームの監督が、ヨハン・クライフ。選手時代にバルセロナ市民から“エル・サルバトーレ(救世主)”と呼ばれたスーパースター。
 1960〜70年代の大選手のなかで、私たちはペレは“キング”、ベッケンバウアーは“カイザー”(ドイツ語で皇帝)と呼んだが、ヨハン・クライフは“王”ではなく、“スーパースター”。そのころ流行した“ジーザス(JESUS)クライスト(CHRIST)スーパースター”の曲の頭文字J.C.がヨハン・クライフのJ.C.と同じだったからだ。
 今でも曲を聴くと、私の口からは自然と、ヨハン・クライフ・スーパースターと出てくる。

 1947年4月25日にオランダのアムステルダムに生まれ、幼いうちに父を失い、母親が名門アヤックスのスタジアムで働くようになって、彼はボールと遊ぶ。やがて、草サッカーで「ヨハン坊やのチームがまた勝った」と大人の話題になる。
 15歳でアヤックスと契約し、17歳で一軍にデビュー。次のシーズンにリーグ得点王(33得点)。
 CFながら9ではなく14を付け、後方に下がってボールを受ける「ロービングCF」。攻めの基本となり、パスで相手を崩し、ドリブルで守備を切り裂いた。彼を擁したアヤックスはリーグ6回、カップ4回優勝。1971年から73年まで、欧州チャンピオンズカップに3連勝。1973年夏にバルセロナに移り、ここでも、スペインリーグ1回、カップ1回の優勝に貢献した。

 1974年のワールドカップ西ドイツ大会ではオランダの主将。ミケロス監督の「トータル・フットボール」の核となって、新しいサッカーを演じて世界を驚かせ、決勝で西ドイツに敗れたが、優勝チーム以上の評価を受けた。その翌年の欧州最優秀選手の記者投票でもベッケンバウアーをおさえて3度目の受賞。

 1974年のワールドカップで私は最盛期の彼を見た。スリムながら鋼のようなバネ。対ブラジル戦の、左からのクロスをジャンプ・ボレーしたビューティフル・ゴールや、仲間にピタリと合わせる正確無比な長いパス、緩急の落差の大きいプレーは今も思い出す。

 私がインタビューしたとき彼はこんなことを言った「少年の頃はやせていて、運動能力に優れていたわけではないが、練習をしてここまできた。ワールドカップのロングパス?17歳くらいでああいうパスを蹴っていた。走る速さ?速く走るのも大切だが、もっと大事なのは、いつ走るか、ということだ」。


(ジェイレブ 1992年8月号)

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