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ヨハン・ニースケンス

 ニースケンスといえば、私にはまず1974年7月3日に行なわれた西ドイツW杯、2次リーグA組、オランダ対ブラジル戦でのスーパーゴールが浮かぶ。
 16ヶ国参加のこの大会は、4組に分かれての1次リーグの後、再び2組の2次リーグを行ない、各組1位が決勝へ進む仕組みで、2戦2勝の両チームにはファイナルへの出場をかけた大一番だった。

 ドルトムントのウエストファリア・スタジアムの満員(53,000人)の観衆の見守る中で、前半は0−0。ブラジルのラフプレーにナーバスになったオランダは、これまでの5試合のようにはいかず、オフサイド・トラップのかけ損ないで2度もピンチを招いた。そうしたオランダを立ち直らせたのが、後半5分のニースケンスのシュートだった。

 相手のファウルによる中盤のFKから始まったチャンスは、まずハネヘンがニースケンスにパス。ニースケンスは中央をドリブルして、右サイドに開いたクライフに渡す。クライフが受けてドリブルを始めたとき、ニースケンスもゴールへ向かってスタートした。
 前進し、相手のゼ・マリアと相対しながら、クライフは右足でゴール正面右寄りの空白地帯へボールを送る。そこへニースケンスが走り込み、防ぎに来るペレイラより一瞬早く、ショートバウンドに合わせて滑り込むような姿勢から右足に当ててシュート。ボールはGKレオンの頭上を抜いて、ゴールネットに飛び込んだ。

 クライフがドリブルし、パスを出し、ニースケンスが飛び込むその速さ、相手の守りの手薄なところへ一気に入ってくる仲間のぎりぎりのところへパスを送り込む、クライフの神業のようなパスと、体操選手だったバネと身のこなしを活かして、めいっぱいのところでボールをとらえたニースケンスのシュートは、オランダのトータルフットボールによる「シンプル攻撃」のモデルといえた。
 このゴール以降、ゲームは一方的となり、オランダは15分後に、今度は左からのクロルのクロスに合わせてクライフがボレーシュートを決めて2−0とし、決勝進出を決めたのだった。

 ヨハン・ニースケンスは、この時22歳9ヶ月。27歳のクライフから最も信頼されている若手の一人だった。次の決勝(1−2、西ドイツ戦)の、開始後すぐに生まれたPKを蹴ったのが彼であったことが、その深さを示している。

 この大会でニースケンスは5ゴール(うちPK2)を挙げて、得点ランキングでラトー(ポーランド、7点)に次ぐ2位となったが、彼の本領は得点能力だけではなく、守備での鋭いタックル、175cmの身長から考えると驚くほど高いジャンプヘッド、速く広い動き――とトータルサッカーを支える攻守兼備のプレーにあった。
 20歳でアヤックスのMFに起用されてから、すでにスターの座にあったクライフとともに、欧州チャンピオンズカップの3連覇に貢献し、アクロバティックなプレーでも知られていた。

 4年後の78年W杯では、不参加のクライフに代わってチームの主軸となった。故障のため、体調は万全ではなく、またクライフ抜きのオランダの攻めはロングパスやロングシュートなどの、“力”に頼ったが、彼の動きがなければ、この力攻めも生きなかった。

 決勝進出を決めた2次リーグのイタリア戦でも、ニースケンスが中盤から前へ出ることで相手を押し込んで、ハーンとブランツの2発を生み、決勝での同点ゴールと、アルゼンチンを瀬戸際に追い込んだ後半の猛攻も、彼の力強い動きなしでは成り立たなかった。

 バルセロナを経て79年に北米リーグのコスモスに移った彼に一時、アルコールに溺れるとの噂もあったが、88年のチャリティゲームに来日したときは「スイスでアマチュアチームを教えながらプレーを楽しんでいる」と元気そうだった。

 同じヨハンでも、クライフが今も主役であるのと違って、ニースケンスは選手生活を終えるとファンの前から消えてしまったが、ひたむきにプレーし、手ひどいファウルタックルにもひるまず、敢然とゴールを目指した彼を、私たちは忘れはしない。


(ジェイレブ 1994年11月号)

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