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デンマークと五輪サッカー

 デンマーク続編のスタートに、オリンピックの話を紹介したのは、デンマークが長い間、アマチュアの立場を守り、オリンピックで好成績をあげてきた数少ない西欧サッカー国だからだ。

 デンマークはバルセロナ五輪にも欧州予選を勝ち抜いて、23歳以下の代表チームを送り込んだ。1次リーグで敗退したけれど、1972年ミュンヘン大会以来の出場は、6月の欧州選手権優勝とともにデンマーク・サッカーの、実力向上の証(あかし)ともいえた。

 彼らとオリンピックの関わりは、1896年に近代オリンピックがアテネで開かれたとき。デンマーク選抜チームがギリシャ代表と試合をしたのだった。公式競技でなかったためか、記録はなく、スコアも不明だが、ヨーロッパ大陸東南端のギリシャまで、北欧から出かけて行ったデンマーク人の熱意に頭が下がる。

 こうしたオリンピックへの熱意は、1908年のロンドン五輪にも及び、初めてサッカーが公式競技となったこの大会で、デンマークは代表チームを送り込む。ノックアウト・システムの1回戦でフランスA、2回戦でフランスBに大勝(対フランスBの17−0は国際試合の大勝記録)し、スウェーデン、オランダを連破した英国と決勝で対戦した。さすがにサッカーの母国・英国のアマチュア代表は強力、0−2で敗れたが、初の公式競技となった大会での銀メダルは、デンマークにとって大きな刺激となった。

 次のストックホルム五輪は、私たち日本人にはマラソンの金栗、短距離の三島と2人のアスリートが初参加したオリンピックとして記憶に残るが、同時にスポーツ競技会としてオリンピックの形が整った歴史的な意味を持つ大会でもある。サッカーも13ヶ国が参加したが、デンマークは準々決勝から出場してノルウェーを7−0の大差で破り、準決勝ではオランダを4−1で倒した。決勝は前回と同じ英国代表。ハンガリーを7−0、フィンランドを4−0と余裕を持っての決勝進出。デンマークはミドルボックの活躍もあったが、2−4で敗れた。

 英国人の指導によって、英国スタイルのプレーを受け入れ、アマチュアリズムを守るデンマークは、1920年のアントワープ大会以後、しばらくオリンピックから遠ざかる。ブロークン・タイム・ペイメント(休業補償)―――試合や、試合のための旅行で会社や工場から賃金をカットされるプレーヤーに対して、サッカー協会やクラブがその賃金を補償する制度をめぐって、「サッカーで報酬を受けるのだからアマチュアではない」とする意見と、「アマでも休業補償を受けられる」とする意見で分かれた。中部ヨーロッパでは認める方だったが、デンマークや英国の各協会は反対し、代表チームを送らなかった。

 デンマークがオリンピックで輝くのは1948年のロンドン大会。第2次大戦が終わってからだった。

 プロフェッショナルに長い伝統を持つイングランドで、アマチュアの試合がどれほどの人気になるのかと心配されたが、開幕前の予選(参加18チームを16チームにしぼる)、オランダ対アイルランドに2万、ルクセンブルク対アフガニスタンに1万2千人も集まった。

 そんななかでスウェーデンやデンマークといった北欧勢の高いテクニックと見事なチームワークが注目された。デンマークは、エジプト、イタリアを1回戦、準々決勝で破り、準決勝ではスウェーデンに2−4で敗れたが、3位決定戦で英国を5−3と撃破した。

 次のヘルシンキ(1952年)からソ連や東欧の社会主義国がオリンピックで優勢となる。国家や国営企業に所属するスポーツ選手が、国のバックアップでトレーニングするようになり、西欧のアマチュアよりも高い能力を持つ選手やチームがオリンピックに登場する。こうしたステートアマがオリンピックのサッカーで優位に立ち、メダルをほとんど独占する形になるなかで、デンマークは1960年ローマ大会で堂々の決勝進出を果たす。

 1次リーグ1組で彼らはアルゼンチンを3−2で破り、ポーランドを2−1、チュニジアを2−0で下してベスト4へ進出。準決勝では常勝ハンガリーを2−0で倒した。

 決勝はユーゴの技巧に及ばず1−3で敗れたが、フロリアン・アルバート、G・ラカトシュ、ヤノス・ドナイなどのスターのいるハンガリーに完勝し、社会主義国の一角を崩しての銀メダル獲得は高く評価された。

 私たち日本も、1968年メキシコ・オリンピックで銅メダル、3位となって注目されたが、その前の東京オリンピックの4年前から始めた代表チーム強化のための長い努力と多額の強化費を考えると、周囲のサッカー大国への選手流出が絶えないデンマークのオリンピックでの実績には、感嘆のほかない。


(サッカーダイジェスト 1992年10月号「蹴球その国・人・歩」)

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