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84年欧州選手権 最大のノルディックの侵入

“アマチュアのサッカー国”と見られていたデンマークがプロフェッショナルの大国たちに衝撃を与えるのは1984年のヨーロッパ選手権。その2年前から始まった地域予選第3組の第1戦で、デンマークはまずイングランドをホームに迎えて2−2で引き分ける。

 このグループにはイングランド、ハンガリー、ギリシャといった手強い相手がいて、これらとの対戦は一つひとつがスリルに富むものだった。

 デンマークは次にルクセンブルクとのアウェーに勝ち(2−1)、ギリシャをホームで破り(1−0)、83年9月21日、ロンドンに乗り込んだ。イングランドとのアウェー戦、ドイツ人のピオンテック監督のもと、デンマークのイレブンは固い守りでイングランドの得点を許さず、ベテランのシモンセンのPKによる1点で貴重な勝利を握った。
 この日、ウェンブリーへ繰り出したデンマークのサポーターは1万5千人。かつてのバイキング時代以後、「最大のノルディックの侵入」と書いた新聞もあったほど。この試合のテレビ放送を400万人、デンマークの人口の80パーセントが見たという。

 次のルクセンブルクとのホームを6−0で勝ち、ハンガリーとのアウェーは0−1で落としたが、ギリシャ(アウェー)を2−0で破って6勝1分け1敗。イングランド(5勝2分け1敗)を抑えて第3組の代表となったのだった。

 84年6月12日、パリのフランス対デンマーク戦で開幕したEURO84―――84年ヨーロッパ選手権は、8ヶ国集中開催の第2回目で、前回のイタリア大会よりも運営はスムース、入場券の販売もよく、多数の観客の声援を受けて、各会場で好ゲームが展開された。そのなかで目立ったのが、デンマークの強さ。初戦の対フランスは「至宝」ともいうべきアラン・シモンセンが骨折するという不運もあり0−1で敗れたが、次のユーゴ戦は5−0の一方的なスコア。試合巧者ベルギーをも3−2で下して、1次リーグ第1組の2位となった。

 モアテン・オルセンを軸とするDFライン、ベアテルセン、ベアグリーン、レアビー、アルネセンらのMF、エルケーアと若いラウドルップの組む2人のFWは、初めてデンマークを見る私にとって、まさに驚きの連続だった。

 若いミカエル・ラウドルップのドリブルのうまさ、エルケーアの猛牛のような威力ある突進、それでいて器用なターン、軽いボールタッチは、私が抱いていた「北欧」のサッカーのイメージとは全く違っていた。

 1977年の欧州最優秀選手のシモンセンは気の毒な負傷のため、そのあと見ることはできなかったが、スーパースターを失ってもなお衰えることのないデンマーク人の攻撃精神、ひたむきなサッカーはフランス人観衆にも共感を呼んだ。

 リヨンでの準決勝でデンマークは、スペインの粘り強い守りに延長を終わって1−1、PK戦でエルケーアが失敗して4−5で敗退した。決勝はフランスとの再戦と大方の人間が予想したが、スペインは名GKアルコナーダのファインプレーや粘り強い守りでデンマークの猛攻をくいとめ、PK戦で生き返った。

 この試合ではレフェリーの判定にいくつかの疑問があり、特に後半、スペインの明らかなオフサイドを見逃したためにチャンスが生まれ、これをきっかけにスペインが元気づいたこともあったが、スタンドに詰め掛けたデンマークのサポーターたちのフェアな応援が印象に残った。
「私たちデンマークのような小さな国が、このような大舞台で試合ができ、それを応援にやってこられることを、本当に感謝しています。準決勝で負けたのは残念だが、ベスト4に残れただけでも喜んでいるのです」

 菓子工場を経営するというデンマーク紳士は、私にこう言っていたが、フィールド上だけでなくスタンドでも84年のデンマークは爽やかだった。

 この代表チームの大舞台への登場には、やはり伏線があった。

 相次ぐ選手の流出に歯止めをかけるために、DBUが“契約選手”制度を採用したのが1974年。これまでのアマチュアと違って、クラブとの契約で試合や練習の報酬をプレーヤーは受け取ることができる(セミ・プロ)。その代わりにクラブは移籍料を取ることができるようになった。

 そしてまた、国外で働く選手を代表チームに加えることもできるようになり、代表強化への道を開いた。

 さらに1979年からドイツ人のゼップ・ピオンテックを代表監督に迎えた。

 当時44歳のピオンテックは、ベルダー・ブレーメンでプレーし、60年代には右DFとして西ドイツ代表の経験もある。選手を引退してからケルン体育大学で学び、卒業後、西ドイツのトップ・クラブやハイチなどで監督を務めていた。

 彼は代表選手に、ナショナルチームが勝つことの意義を説き、各国でプレーするプロフェッショナルを集めてチーム作りを図り、その戦術指導によってイングランドを倒し、フランスやスペインなどの大国を苦しめた。


(サッカーダイジェスト 1992年10月号「蹴球その国・人・歩」)

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