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ラウドルップ一家とブロンビー

 92年ヨーロッパ選手権優勝のデンマークは、この84、86年組の次世代のチーム。84年では若かったミカエル・ラウドルップ(1964年生まれ)は、いま28歳の絶頂期にあるが、メラー監督と意見が合わず代表に加わっていない。彼に代わって攻撃をリードしたのが5歳年少の弟、ブライアン。1969年2月22日生まれのブライアンは、兄ミカエルと同じようにドリブルがうまく、腰を落とした姿勢はよく似ているが、小さなターンと粘っこいキープという点では兄以上(ただしミカエルは得点のセンスがいい)。ブライアンのドリブルによってチームはピンチをチャンスに結びつけた。

 2人の父、フィン・ラウドルップも1960年代にデンマーク代表を務めた優れたプレーヤーだが、フィンは1973年、地域の小クラブ、ブロンビーに加わって、このチームをトップ・リーグに引き上げるために努力した。

 父親は1970年代の中期にクラブを去ったが、ブロンビーは78年に2部へ上がり、1983年には1部へ昇格。そして2年後にデンマーク・チャンピオンとなり、夢を実現するとともにデンマーク・サッカーの牽引者となった。もちろんミカエルもブライアンもこのチームの上昇に貢献し、国外のクラブに目をつけられ、成功の途を歩んだのだった。

 このチームのパトロンである医師のビエレガルドは1987年からクラブにフルタイム・プロを採り入れ、デンマーク選手の“移出”を止めようとした。

 彼の“プロ化”は、1991年のUEFAカップでブロンビーがベスト4に進むことで成功を収め、デンマーク・サッカーに大きな反響を呼んだ。

 人口が少なく、プロフェッショナルとして恒常的に多くの観客を集めることは難しい。従って入場料収入も多くを望めない。だからプロ化は無理だ―――デンマーク・サッカーは長い間、こうした考え方を持ってきた。

 ナショナルチームは強化され、檜舞台で勝つようになっても、リーグの単独チームがヨーロッパの国際舞台で光彩を浴びることは難しい―――とされていたのが、ブロンビーによって破られたともいえる。

 昨シーズンからDBUは、トップ・リーグ(14チーム)を8チームによるスーパー・リーグとした。質の高いゲームで観客数の増加を図るという。

 こうした新しい展開が果たしてうまくゆくかどうか。もし、いくつかのチームが「フルタイム・プロ化」に踏みきったとき、その財政はどうなるのか。実際にはブロンビーも、今年は経済的に苦しくなっているとの声もあって、まだまだ問題は残るだろうが、アマチュアの大国だったデンマークは、いまサッカー新時代に向かおうとしている。

 こうした体制変革の動きとは別に、デンマーク・サッカーがここ20年ばかりの間に、常に高い能力のプレーヤーを生み出しているのはまことに素晴らしい。少年たちのための十分なグラウンドと、子供はまず遊びからという精神、そして“選手”を目ざす若者に対する指導が、見事に組み合っているようだ。
「親たちは子供が試合で勝つのを望むが、コーチはそれにとらわれないようにしている」という彼らの少年育成と、一つひとつの試合にアマ時代と同じく「サッカーの試合ができる新鮮な喜び」を持つデンマークのよさは、ヨーロッパ全体がプロの爛熟期にあるとき、改めて注目されている。

 92年欧州選手権準決勝で敗れたオランダのミケルス監督は「サッカーはエンタテイメントであるだけでなく、闘争でもあることに再び気づいた」といっている。


(サッカーダイジェスト 1992年10月号「蹴球その国・人・歩」)

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