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vol.30 フランス(上)


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 ’90ワールドカップは、イタリアという最高の舞台で、まことに楽しく、強く印象の残る大会だったが、私には86年メキシコ大会のフランス対ブラジルのような“技術と戦術と芸術に耐える”ゲームがなかったのが、ただ一つの不満だった。ヨーロッパ・サッカーで特異な地歩を築いたフランスは、98年のワールドカップ開催の候補地でもある。フランス・サッカーの復活を願いつつ、「くに、ひと、あゆみ」を眺めていこう。
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フランスサッカーの創世記。スポーツ界の大功労者を輩出

 古代ギリシャのオリンピアでの競技会を復活し、近代オリンピックをスタートさせて、今日の盛況のもとをつくったピエール・ド・クーベルタン男爵もフランス人なら、国際サッカー連盟を創り、初代会長となったロベール・ゲラン氏もフランス人。そして、ゲラン氏の夢見た国際選手権大会を重視し、ワールドカップの隆盛を導いたのも、FIFA(国際サッカー連盟)第3代会長、フランス人のジュール・リメ氏だった。フランスのスポーツを語るとき、まず、こうしたグローバルな視野を持つ、スポーツ人を生み出したフランスに敬意を表してから始めることにしたい。

 そのフランスにサッカーが伝わったのは、1863年のFA(フットボール・アソシエーション)創立から10年ぐらい後だが、中世から、あるいは、さらに以前から、フランスにはブリテン島と同じように、いまのサッカーともラグビーとも区別のつかぬ、ボールをキックしたり、手で叩いたりしながら、相手のゴールへボールを押し込んでいく遊びがあったらしい。この遊び、南フランスのプロヴァンス地方や、西北のノルマンディーなどで盛んだったところから、古代ローマのハルパスツウムの流れをくむとか、あるいは、ブリテン島の住民が海峡を越えて持ってきたとか、いろんな説がある。
 18世紀には廃れてしまったのだが、とりあえずは、ルールがあってないような古代フットボールがあったことは確からしい。
 そんな背景があって、フランスは英国のブリテン島以外で、ヨーロッパ大陸では、最も早くラグビーが行なわれるようになったところ。ドイツやスペインなどでは、FAルール(サッカー)が船員や鉱山技師によって持ち込まれると急速に広まり、後からやってくる「手を使う」型のフットボールは、なかなか定着しないのだが、フランスは、ともかく分裂以前の荒々しい、手を使い、相手を突き飛ばし蹴飛ばすフットボールもあったから、ラグビーにも馴染みやすかったのかも知れない。

 とはいっても、サッカーがフランスで最大の競技人口を持ち、もっとも人気あるスポーツであることは、他のヨーロッパ大陸の国々と同じだ。人口5,400万人のところに、160万人の登録人口、女子サッカーの登録人口が、女子スキーの登録人口に迫る勢いなのだから、その全勢力はたいへんなもの。
 フランス・サッカーの底辺拡大につながった最大の原因は、なんといっても、ミシェル・プラティニを中心にした、1976年から86年の代表チームの活躍。技術的なうまさも当然ながら、その激しさ、強さ、速さ、そしてさらに、想像力の豊かさが、たくさんのファンを魅きつけたといえる。


ムーランルージュと草サッカー“パリジャン・リーグ”

 1977年のゴールデン・ウィークに、ヨーロッパの駆け足旅行をした時、パリはムーランルージュに行った。華やかなショーの中に、風船状の軽く大きなボールを抱えてダンサーたちが踊り、ときにキックし、ヘディングする“サッカー”があった。
 衣装 (ユニホーム)は、なんと黄色。プログラムの題名が“ロワール・ド・バルーン”(ボールの王様)。黄色はブラジル、ロワールはペレのことと察したが、こういったダンスにサッカーを取り入れていることが、フランスではサッカーが決して特別なスポーツではなく、日常生活の一部であったり、常識であったりの証明であるように思えた。

 この頃、ちょうどパリ市内で行なわれている、パリジャン・リーグの10万人にも達する登録プレーヤーの国籍を調査したレポートを見つけた。それによると、このリーグに所属している外国人は、78ヶ国9,930人。うち欧州が6,190人、なかでもポルトガル人が一番多く、3,370人。次いでスペイン人の1,212人。少ないのはフィンランド人とアルバニア人で、各1人ずつ。ソ連人は11人いた。
 アフリカも多く27ヶ国3,578人いて、多いのはアルジェリア人の1,290人、チュニジア人の704人、モロッコ人の654人。
 面白いのはアメリカ大陸で、98人のうち、ブラジル人の31人はいいとしても、USA、つまりアメリカ人が15人もパリで草サッカーをしていることだった。アジアは合計で60人。オセアニアはさすがに少なく、ニュージーランド人が1人、オーストラリア人が3人だった。

 これも、もちろんパリという町の国際性と同時に、サッカーが、どこでも、誰でも、手軽に、気軽にできるスポーツだということだろう。ポルトガル人、スペイン人が多いのは、イベリア半島からの出稼ぎの人たちが多いということにもつながる。
 84年のフランス欧州選手権のときに、パリ市内を、ポルトガルのサポーターがバスを連ねて走っているのを見た。そういった点ではフランスはやはりヨーロッパの中央部、どこの国からでも距離が近いといえる。


1977年、フランス・サッカーのニオイ

 77年のヨーロッパ駆け足ツアーの第一目的は、フランス・サッカーのニオイだけでも知っておきたかったから――イダルゴ監督が、プラティニという天才を軸に、代表チームを創り上げる夢を持っている記事を読んだし、何より、上昇しようという、若いサッカー国の勢いを肌で感じたかったからだ。
 リーグ戦はニース対サンテチエンヌの1試合しか観ることができなかったが、ニースはユーゴからのプレーヤーがタテのラインにいて、非常にしっかりしていたこと、ユニホームの色から“ラ・ベール”(緑)と愛称されるサンテチエンヌは、いささか不調ながら、ドミニク・ロシュトーの人の間をすり抜ける“うなぎ”とアダ名されるドリブルが印象に残っている。
 そして、一番驚いたのは両チームの試合運び。いまの欧州の一流チームの試合のように、ハーフラインをはさんで約30メートルの内側に双方の10人、合計20人が詰め込まれ、その狭いスキ間を速いパスでつないで相手の裏へ出ようとする。それに対して、パスをカットしつつオフサイドトラップで、相手が裏へ走り込むのをレフェリーのホイッスルで止めさせる。オフサイドトラップの逆をとられたときは大ピンチだが、それは GKの動く範囲も広いものだった。
 地中海まで、はるばる中央産地のサンテチエンヌから、オートバイで応援にやってきた青少年たちが、緑の小旗をつけたまま、いっせいに引き上げていくのも壮観だった。


78年アルゼンチンW杯 22歳の将軍プラティニ登場

 この77年は、次の年、78年のアルゼンチン・ワールドカップでの、フランス代表チームへの期待につながる。
 78年6月2日、マルデルプラタで午後1時45分から行われた1次リーグ第1組のイタリア戦で、フランスはキックオフ直後の38秒にビューティフルゴールを記録した。
 キックオフから、イタリアが探りながらゆっくりと攻め上がってきたところを、フランスが自陣左サイドでボールを奪い、左ウィングのシスにパスが渡る。シスはいったん中へパスし、今度はパスを受けて、一気にゴールラインめざして左からライナーのクロス。これを CFのラコンブがヘディングで合わせたのだった。
 この先制点でイタリアは、まずカテナチオで守るという本来のやりかたを捨て、挽回するために攻めに懸命となった。おかげでゲームは緊張感に満ち、大会全体の気分を大いに盛り上げた。
 この78年のチームは、リベロにトレゾールを配し、中盤にプラティニ、前線にシスやロシュトー、ラコンブなどがいた。
 MFで期待されたバテナイは調子が悪く、22歳の“将軍”プラティニが、イタリアの守備網に囲まれながら巧みにボールを操ったが、突破まではいかなかった。
 地元アルゼンチンとの試合でも、フランスは勝っても引き分けてもおかしくない形成だったが、前半にトレゾールのハンドからPKを取られたのが最後まで響いた。
 結局、フランスは1次リーグでハンガリーに3−1で勝ったものの、イタリア、アルゼンチンにはともに1−2で敗れ、上位進出はならなかった。しかし、攻撃的で個人技にあふれたサッカーは世界の賞賛を集めた。


1950年代のフランスサッカー黄金期。レイモン・コパとフォンテーヌ

 話は前後するが、フランスのサッカーは、1950年代に一度、戦後の黄金期を迎えている。それは58年、スウェーデンでのワールドカップで3位になったときだ。
 レイモン・コパ、本名はレイモンド・コパゼウスキー。その名のとおりポーランド人の両親を持つコパは、51年にアンジェからランスへ移り、ここでフランスの黄金時代を築いている。キープ力とゲームを創る能力は、当時、ヨーロッパの頂点に立っていたスペインのレアル・マドリーの首脳に見込まれ、56年に移籍。そこで、ディ・ステファーノやヘントらの名手と腕を磨いた成果が、58年のワールドカップで発揮される。
 コパの組立を締めくくったのが、ジュスト・フォンテーヌ。モロッコのマラケシュ生まれのフォンテーヌは、補欠としてスウェーデンに乗り込んだが、大会が終わったときには13ゴールを挙げていた。
 この2人の時代が華々しかったために、それから以後のフランス選手は、コパ・フォンテーヌ時代の“伝説”が頭にこびりつくようになる。

 70年代、若いプラティニやボッシやロシュトーたちは、58年の域に達した、達していない――といった評論とも戦いながら成長していく。
 82年のスペイン・ワールドカップでは、フランス代表は30歳のジレス、ラコンブを年長に、主力のプラティニ、ティガナ、ロシュトー、ボッシ、バチストンらは25〜27歳の安定期に入っていた。
 この82年大会は、最も技術が高く強いハズのブラジルが敗れ、そのブラジルを倒したイタリアが優勝したが、イタリアの優勝にはDFのファウルを見逃し続けたレフェリーに問題があったように思えた。したがって、この大会記録を見れば、イタリアと西ドイツが優勝を争ってはいるが、現地にいた私たち記者は、最も美しかったブラジル(2次リーグ敗退)と最も魅力的だったフランス(ベスト4)を最後まで残しておきたかったものだった。


自国開催の84年欧州選手権で優勝

 84年6月、ちょうど第2次大戦で連合軍がノルマンディーに上陸し、ナチス、ドイツを潰滅させるための大反攻を開始してから40年後、フランスは欧州選手権の舞台となった。この大会で、私は何年かに渡って見続けたフランス代表が頂点に立ったのを知った。
 フランスの選手たちは体調がよく、また、地元の大観衆の大声援を受けて士気は高く、ゲーム中の一つ一つのプレーに気を配り、かつまた大胆だった。
 イタリアのユベントスに移籍して、高いレベルのリーグでもまれたのがプラティニによかったのだろう。特にゴールを狙う意欲を燃やしたから、得点できるゲームメーカーとしての彼の本領が最大限発揮された。
 もちろん、集結したのはヨーロッパ勢ばかり。ということは、プラティニやフランス代表よりも、ボールテクニックが上だというような選手はまずいない。したがって、技術は自分たちの方が上、体調がいいとくればゲームへの自信も持てることになる。それよりも、チーム全体に勝とうという気迫が強かった。

 フランス人は、お洒落で、粋で、いわばファッションや芸術に関心があると日本では思われているが、スポーツのような勝ち負けのはっきりしている、いわゆる勝負ごとも決して嫌いではない。そしてまた、勇ましいことも、とても好む。いまでも、ヨーロッパ全土を席巻したナポレオンはフランスの英雄だし、彼によって歴史の流れが(たとえ本人が皇帝であっても)自由、平等の方向へ大きく変化したことに誇りを持つ人も多い。
 ナポレオンといえば、長塚隆二という私の軍隊時代の同期生で、ナポレオンやジョルジュ・サンドの研究者として、学界では有名な大学の教授がいる。あるとき、彼にフランスのサッカーは攻めることが好きで、守るのはあまり好きそうに思えない――と話したことがある。
 彼は「フランス人には、そうした性向があるようにみえる。戦争のときでも、なにしろヨーロッパの中央部にあって、いつ周りから攻め込まれるかわからないわけで、したがって、守るよりは攻めに出る方がいいと思うのじゃないかな」などと笑いながら言ったことがある。
 84年のフランス代表は、攻めるだけでなく、相手が勢いに乗っているときは、ひたすら堪える。そして、機をみてカウンターに出るといった、大きな流れをつかむ試合もやってのけた。
 グループ1組のリーグ戦は、1−0デンマーク、5−0ベルギー、3−2ユーゴと3戦全勝。1組のトップで準決勝に進み、ポルトガルを3−2と破って決勝進出。決勝ではスペインを2−0と破って優勝。地元の大声援に応えて初のビッグ大会を制した。
 フランスにとって、いつも戦いにくい西ドイツが不調で、準決勝へ出てこられなかったのも優勝への道乗りを楽にしたが、イダルゴ監督が日頃口にする「攻めてゴールを決める」という“子どもたちが、やってみたいと願う”サッカーができたといえる。


スター選手から代表チーム監督へ

 86年のメキシコ大会は、フランスは準々決勝でブラジルと対戦し、延長戦の末、1−1、PK戦で辛くも勝って準決勝に進出。準決勝は西ドイツにFKから先制ゴールを奪われ、プラティニが攻撃陣のトップに立つハメになって、決勝への進出はならなかった。
 ゲームメーカーでストライカーでもあるプラティニにとって、西ドイツ戦は仲間のロシュトーが故障で欠場したために前線に出ていくことになり、味方からのパスをいったん中継し、さらに効果的なパスに変えるという、本来の仕事よりも、前線に残ってパスをもらう形になってしまったことが敗因だった。
 このとき、プラティニは31歳。長い間、一緒にやってきた仲間たちも、ぼつぼつ代表を去る時期がきていた。
 彼らが代表チームから退いた後、フランスは90年のワールドカップには出場できなかった。隣のイタリアで華やかな大会が行なわれているのに、フランス代表の試合がないなんて――サポーターたちは、イタリアのスタジアムで力いっぱいフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」を唄いたかったに違いない。

 さて、私たちは一つの国の代表チームが、10年間に三度のワールドカップの舞台で戦いつつ、チーム力を強化し、補修し、高いレベルに創り上げ、解散していくのを眺めてみた。
 フランスは、ミシェル・プラティニというスター監督に代表チームを託し、より魅力的で強いチームを創り上げようと試みた。1998年のワールドカップをフランスで開催するときに、フランスの市民が、サポーターが、心から声援を贈り、大会を楽しめる、そんなチーム、84年の欧州選手権のときのようなチームを創りあげなければなるまい。それが勝敗をともなう、プロスポーツという国際的エンターテイメントの勤めでもある。
 プラティニ監督が、選手たちが、国民が、これからどのようにして90年代の黄金時代を築くかはこれから注目することにして、次回は、サッカーがフランスの各地域で、どのように根を下ろし、どのような選手育成をしているかを見ていきたいと思う。


(サッカーダイジェスト 1990年12月号)

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