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vol.31 フランス(下)


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 コニカ・カップ、日本リーグと、国内シリーズもいよいよ賑やかになってきました。コニカ・カップではオリンピック代表チームを見て、いい素材が多いのに嬉しく思ったものです。1勝もできませんでしたが、いいチームをつくれる若者たちでした。“フットボール・アラウンド・ザ・ワールド”の連載はフランスの(下)、ほぼ方形の国中に散在するクラブと少年育成を眺めます。
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明治の先輩とスポーツクラブ「ルアーブル・クラブ」の誕生

 フランスはイギリス海峡の港町、ルアーブルにスポーツ・クラブ「ルアーブル・アスレチック・クラブ」が誕生したのが1872年。日本でいえば明治5年、あのNHKの大河ドラマ『翔ぶが如く』の時代だった。
 海外の文明を採り入れ、新しい日本を建設するために、私たちの先輩たちは文字どおり寝食を忘れて頑張っていた。このころ、欧米に視察に出かけた岩倉具視や大久保利通らが多くの収穫を持ち帰り、その後も再三の視察で海外事情を調査するのだが、ごく最近までも、スポーツ・クラブという欧米の生んだ文化の報告はほとんどない。
 岩倉郷や大久保郷の頃の、あの一足飛びに欧米に追いつかなければ(国の存在も危うい――と彼らは信じていた)といった時代が過去のものとなってからでも、いわば、日本という国が(他の国から侵略されるかもしれない恐れが減少し)多少の余裕ができてからでも、欧米のスポーツの根幹ともいうべき、スポーツ・クラブについて、知ることは少なかった。

 各国のスポーツの発展は、そのスポーツ史の中で、スポーツ・クラブの創設ということが重要な節目になっている。
 日本の歴史では、ルアーブル・クラブ創立の翌年に、東京築地の海軍兵学寮で、英国海軍のダグラス少佐がフットボール(サッカー)を指導したのが、この競技の伝来の第一ページ。次いで、明治12年(1879年)に体操伝習所でサッカーを教えることによって、普及への第一歩を踏み出すことになる。
 体操伝習所は、後の東京高等師範、今の筑波大学の前身、つまり、国の公的な教育機関にサッカーが教科の一つに入ったということは、画期的なポイントといえるのだが、そのことと、スポーツ・クラブがうまれることとは、また別の話となる。

 スポーツ・クラブができるということは、スポーツを志す者が集まり、スポーツを行なう目的の団体ができるということで、スポーツ人による自主独立の“集まり”が生まれることだ。もちろん、はじめはグラウンドなんかなくて、町の広場を借りることもあったし、地主さんに頼んで整地してもらうこともあった。お金が足りなくて、金持ちから資金援助を受けることもあった。しかし、そのクラブは、あくまでスポーツのためのものであって、運営もスポーツをやろうという人たちが自分の手で行なった。
 だから、欧州、南米のサッカー史を読めば、どこの国でも、まず○○クラブの創立がルールの変遷とともに、もっとも重要な記録になっている。そのクラブが集まって、各クラブをまとめる統轄団体である“協会”が誕生する――のが決まった筋書きとなっている。

 私たち日本人も、サッカーというスポーツを楽しみ、ときには、肉体的に過酷と思うようなトレーニングをしながら、このスポーツを愛してきたことは、世界の人たちと変わることはない。ただし、日本にスポーツが持ち込まれ、根づいていく過程で、世界の多くと全く違ったやり方であったことを(そのことが、善とか悪とかいうのでなく)いつも頭のどこかに留めておきたい。そしてまた、その“あゆみ”の違いが、何かにつけて私たちのスポーツに、サッカーに対する考え方にも現れているかもしれないことも知っておきたい。


プロの1部リーグは20チーム

「ルアーブル(Le Havre)アスレチック(Athletic)クラブの創立から100年後の1972年に、フランスのサッカーはクラブ数が1,500、登録プレーヤー数は90万人と大成長した。その拡張の勢いは、その後10年間でさらに伸びて、1984年、あのヨーロッパ・チャンピオンとオリンピック・チャンピオンの2冠を、わが代表チームが手にした年には、登録クラブは2万2,000、プレーヤーの数は170万人に達した」
 フランス・サッカー協会が1987年に出版した公報の書き出しにこうある。
 登録人口は160万8,470人となっているが、この数字は88年のUEFA(ヨーロッパ連盟)の数字だから、84−85シーズンのフランス協会の173万3,597人から、年によって多少の増減があったのかもしれない。

 それにしても、隣国の西ドイツの476万人や、超大国のソ連の480万人には及ばないとしても、160万〜170万人といえば、イングランドの100.5万人、イタリアの113万人をしのぎ、ヨーロッパで3位の数字だ。その数は5,400万人の総人口の3パーセントに当たり、日本に当てはめれば、登録競技人口360万人のメジャーとなる。
 この170万人の頂点にあるのが、プロフェッショナル・リーグ。彼らの言葉では、「GROUPEMENT DU FOOTBALL PROFESSINNEL」(グループマン・デュ・フットボール・プロフェッショナル)。
 現在は1部(公式にはフランス選手権=CHAMPIONNANTO DE FRANCE PROFESSIONNEL)と2部に分かれ、1部は20チーム、2部はAグループとBグループの2組で、各18チームずつとなっている。


プロを頂点に整然たる組織

 フランス協会がプロを認めたのは1932年(昭和7年)。日本ではロサンゼルス・オリンピックで、南部忠平さんが三段跳び、西竹一中尉が馬術の大障害飛越で金メダルを取ったのをはじめ、水泳では日の丸が相次いでメインボールに上がり、オリンピック熱が最高潮に達した時期だった。
 このロサンゼルス大会は、欧州からの長い船旅で、勤務を休んで参加する選手に、休業補償を払うかどうかの、いわゆるブロークンタイム・ペイメントの論議も飛び交ったが、結局はまとまらず、サッカーはペイメントされなかった。
 32年にプロ化に踏み切ったフランスは、32−33シーズンに1・2部各16チームでスタート。次のシーズンから69−70シーズンまで、1部は14、または16チームだった。  2部も次第に増え、70−71、71−72のシーズンには48チーム(16チームの3組)となったこともあったが、72−73シーズンから現行の36チーム(18チーム2組)となっている。

 ついでながら、2部の下に3部があり、これは「3部のフランス選手権」と呼ばれ、96のチームが6地域に分散していて、その大半はアマチュア。そして、3部の下は、14チームずつ8グループ、計112クラブの4部がある。
 こうした多くのリーグの下に少年の組織もあるが、それとは別に、日本の天皇杯に当たる「フランス・カップ」(LA COUPE DE FRANCE)は1937年にスタート。最初のシーズンは40チームが参加しただけだったが10年後には380チームとなり、76−77シーズンには3,000チームを越え(3,179チーム)、85−86シーズンには4,117チームが参加している。  こうした膨大で、しかも整然たるフランスの組織は、プロフェッショナルのクラブの内部にも浸透していて、トップ・クラブは、それぞれに1軍、2軍、アマ、少年(各年齢別)と、きちんと運営されている。
 日本ではプロ化の推進の中で、それぞれのトップを持つことを一つの基本条件にしたが、フランスは昔から特に若手育成についても力を入れてきた。もともと古くから教育論の発達したところだから、少年のサッカーについても、なかなかの理屈を持っている。  それはともかく、トップのプロフェッショナルのクラブが日本の東京中心と違ってフランス全土に散在していることに注目したい。


全土に散在し各地域に密着

 今季は昨シーズン19位と20位だったラシン・ド・パリとミュールーズに代わって、ナンシーとレンヌが1部に昇格している。
 ナンシーはパリから東へ304キロにある人口10万人足らずの町だが、かつてのロレーヌ(日本の古い人には、アルザス・ロレーヌといえば、ご記憶の向きもあるだろう)大公国の首都。この町のナンシー・ロレーヌというクラブはフランス・カップ優勝の経験を持つチーム。ブルゴーニュ地方の中心地、レンヌにあるレンヌFCも、やはりカップ優勝の歴史を持っている。
 この2部から戻ってきた2チームの例に見るとおり、プロフェッショナルの各クラブは、それぞれの市民が誇りとする伝統を持っている。

 周辺の人口を併せると870万人、フランスの人口の16%強の住む世界の都パリには、1910年(明治43年)までの24のクラブが活動していた。現在、トップリーグにいるパリ・サンジェルマンは1937年の創立と歴史は新しいが、82年と83年に連続してフランス・カップ優勝、もちろんリーグ優勝の経験しているクラブで、もっとも近代的で美しいスタジアム「パルク・ド・プランス」をホームにしている。
 しかし、日本のサッカーファン、あるいは欧州、世界のサッカー好きには、このパリのチームより、オリンピック・ド・マルセイユやジロンダン・ボルドー、あるいはASモナコ、サンテティエンヌなどの名前の方がよく知られている。


スター軍団のマルセイユ

 地中海随一の港、マルセイユに本拠を置くオリンピック・ド・マルセイユは、1898年創立と90年を超える歴史を誇る名門で、アマチュア時代を含めて7回のリーグ優勝、カップは9回優勝している。81〜84年までの4シーズンは2部に低迷していたが、84−85シーズンから1部に復帰、ついに昨シーズンはリーグ・チャンピオンに輝いている。
 2部に落ちていたこのクラブを立て直そうと、野心家のベルナール・タピ氏が会長に就任して以来、金を惜しまず外国のスター選手を次々に獲得して強化。西ドイツのK・H・フェルスターやブラジルのモゼール、イングランドのワドル、ウルグアイのフランチェスコリの名は昨シーズンのロスターにも見られ、フランス代表のパパンや名手ティガナらとともに覇権奪回に働いた。それだけでなく、マルセイユは昨シーズンの途中からマラドーナ獲得に乗り出すなど、話題もつくった。
 今季はフランチェスコリをイタリアのカリアリに売り、ユーゴから先のワールドカップで名を上げたストイコビッチを迎えた。そして、さらには監督にベッケンバウアーを迎え、世界を驚かせた。タピ会長としては、世界一のスポーツ用具メーカー「アディダス」の株主になったこともあり、同社と関係が深く、しかも世界的な名声を持つ“皇帝”ベッケンバウアーの“何か”が欲しかったのだろう。伝聞するところでは、オーナーの目標は、まず、チームがヨーロッパ・チャンピオンズカップに優勝することだという。

 これまで、フランスは前号で紹介したように、ナショナルチームはワールドカップで2度3位となり、欧州選手権では84年に優勝、オリンピックでも84年のロサンゼルス大会で金メダルに輝いている。残るタイトルはワールドカップと欧州のクラブ・カップ戦だから、クラブのオーナーとしては、フランスで最初にヨーロッパのクラウン・チームになりたいのだろう。
 経済界の大物の考えることは、単純にチーム強化だけではない。フランスの欧州クラブ・チャンピオンへの執着もまた強いものがある。


ラ・ベール鉱山町の英雄たち

 ヨーロッパのチャンピオンを目指して、最も手の届きそうなところまで進んだのがラ・ベール(緑)の愛称で親しまれた「サンテティエンヌ」(ASSOCIATION SPORTIVE DE SAINT-ETIENNE)。1920年に中部の山地、マッシフ・サントラールの鉱山町に誕生したこのクラブは、70年代中期にチャンピオンズカップのタイトルに迫って、全フランスを沸かせた。
 74年から3年連続フランス・リーグで優勝したラ・ベールは、3年連続チャンピオンズカップに出場。しかし、74年は準決勝で、75年は決勝でバイエルン・ミュンヘンに、76年は準々決勝でリバプールにそれぞれ敗れ(優勝したチームに)惜しい敗退に終わった。
 58年のワールドカップ・スウェーデン大会以来、長いあいだ国際舞台での栄光から遠ざかっていたフランスの心に、久しぶりに赤い火をつけたサンテティエンヌは、それから後、10年間のフランス・サッカー隆盛のきっかけとなったのだった。今シーズンの出足は良くないようだが、もう一度“緑”の旋風を待望する人も多いハズだ。

 昨年2位のボルドーも、マルセイユと同じ19世紀スタートの歴史を持つ。ワインで有名なボルドーは大西洋側にあり、チーム名のジロンダンは、ジロンド地方の人という意味だ。といえば、フランス大革命のときのジロンド党の名を思い出す方もいるだろう。そのジロンド党の本拠地だったこの町は、フランス文化史で有名なモンテーニュが市長だったこともある。
 そんな古い話はともかく、私たちには、このチームは“ナポレオン”アラン・ジレスの思い出とともにある。
 80年代のフランス代表チームの黄金時代に、プラティニ、ティガナとともに中盤を支えた“フランス三銃士”の一人、ジレスは、ある意味ではフランス・サッカーの一つの象徴でもあった。彼より少し若いミシェル・プラティニが、スターとして先頭を切る男なら、彼はちょっと控えめに、それでいて玄人筋から常に注目される選手だった。
 ボールを受けるときの、わずか半歩のステップ、パスを出したのかと疑うほどの短いパス、そして、いつの間にか相手DFラインに迫って、その一番痛いところへボールを流し込んでしまう“目”――それは小男で偉大な戦術家であった、皇帝ナポレオンとも通じるものがあったのだろう。

 私がジレスに会って、特に印象を受けたのは、彼が少年の頃にプレーを始めて以来「一度も身体が小さいことをハンディと思ったことがない」という言葉だった。身体の大きいことも特徴なら、小さいことも特徴だと、ごく自然に割り切って、自分の特色を生かしたところにジレスの成功があった。
 日本のサッカーが、欧州、南米と戦うときに、まず、体格や体力の“ハンディ”を考える人は多いが、アラン・ジレスの例を見れば、ハンディはハンディに非ずと考えるべきだろう。
 ジレスが現役から去ったボルドーは、クラブ会長の会計上のスキャンダルがマスコミに取り上げられて、現在、あまりいい雰囲気ではないという。


田舎町ソショーのクラブ

 ボルドーやマルセイユ、あるいは地中海の軍港トゥーロン、ブルターニュの軍港ブレスト、また、中部フランスの大都市リヨンなどは、フランスのガイドブックや地図でも地名を探し出すことができるが、スイスやドイツの国境に近い町、ソショーは、ちょっと見つけにくい地名だ。
 1928年に創立されたFCソショーは、ソショー・モンベイヤード地区にある、ローヌ河とライン河を結ぶローヌ・ライン河の近く、パリの487キロ東方だから、アルザスのストラスブールにも近い。周囲の人口を併せても20万人程度のところにプロのチームがあることが、ヨーロッパの面白さというものかもしれない。
 ソショーやオセール、あるいはカーンと違って、地中海のモナコ、ニース、カンヌなどは、日本にもなじみ深い町だ。モナコは自動車のグランプリや、レーニェ大公のお妃が美人女優のグレース・ケリー出会ったことで有名だが、ここのサッカーチームはリーグ・チャンピオン5回、フランス・カップ優勝4回の栄誉を持つ名門。昨季は3位で、今季も上位候補の一つ。切手の愛好家には、ここモナコ発行の切手は特に喜ばれるようだが、なかにルイ2世スタジアムの絵柄もある。
 隣のニースは、モナコとともに有名な観光地。町の歴史も紀元前からだが、サッカーのOGCニースも1904年創立と古いチームだ。


少年の育成により、リーグの水準を維持

 こうしたプロフェッショナルのトップクラブを見ていくと、それぞれの町の規模や人口、あるいは経済力に応じたスタジアムを持ち、それぞれの特色あるチームづくりが目につく。なかには、マルセイユのように、ハデなクラブもあるが、スポンサーをあてにして、大金をつぎ込んで強化するようなクラブは比較的少ない。
 したがって、クラブの選手を買うためには売る、いわゆるトレード(トランスファー)が盛んに行なわれている。金持ちクラブのマルセイユでも、今季は10人が他のチームへ移り、10人がまた他のチームから移って来ている。
 そんな移籍によるチーム強化とともに、各クラブとも少年からの育成には力を注ぐ。ちょっと古いが、84年のサンテティエンスのロスターを見ると、

 ・プロフェッショナル(2部リーグ)20人
 ・2軍(3部のリーグに出場)14人
 ・アマチュア(19歳以下)36人
 ・カデット(16歳以下)32人
 ・ミニム(14歳以下)26人
 ・パピルス(12歳以下)34人
 ・プーサン(7〜10歳)38人     となっている。

 現在の日本では、Jリーグの下部組織として少年育成の組織も整備されたが、フランスでは、古くからこれらの子どもたちの成長が、トップチームの支えになっている。人口5,400万人の国で、プロフェッショナルの1部が20チームもあるのは、私にはいささか多すぎる感じもするが、外国プレーヤーの受け入れと少年育成によってリーグの水準を維持し、また高めているといえる。


フランスからの日本への忠告

 フランス・サッカーを考えるとき、ボルドーのジャケ元監督が、私に語った日本へのアドバイスを思い出す。

「日本のサッカーは、クラマーさんという偉大なコーチによって啓発され、発展したことはよく聞いています。だからといって、何でもドイツのマネをしていいわけではありません。
 フランス人は、ドイツ人と比べると、いつも体力という資質で彼らとは違っていることを見出しますし、気質の面でも違っています。ですから、私たちは、ドイツのサッカーに敬意を払いますが、彼らのマネをしようとは思いません。
 私たちには私たちの気質に合った、身体に合ったサッカーがあります。
 ブラジルのサッカーは素晴らしい。ああいうふうにできればいいと思いますが、それでも、私たちはブラジル流をそのままマネるわけではありません。
 日本のサッカー人たちも、日本人のキャラクターにあったプレーを考えるべきでしょう。決してフランスのサッカーのマネをして欲しいとはいいませんが、私たちから何かを汲み取りたいのなら、いつでも私たちはお手伝いします」

 絵画という芸術で、日本の影響を大きく受けたフランスは、ある意味ではヨーロッパにおける東洋のよき理解者でもある。そんなフランスが創出するサッカーについて、私たちは、もう少し気を配ってみるのもよいのではないか。


(サッカーダイジェスト 1991年1月号)

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