賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >第1回日本フートボール大会「サッカーとラグビーが同居」

第1回日本フートボール大会「サッカーとラグビーが同居」

 高校サッカー60年史(全国高等学校体育連盟サッカー部 編集・発行 昭和58年発行)によると、

□第1回 大正7年(1918年)1月12、13日。豊中グラウンド。

・参加チーム:明星商業(大阪)関学高等(兵庫)御影師範(兵庫)奈良師範(奈良)神戸一中(兵庫)堺中(大阪)姫路師範(兵庫)京都師範(京都)の8校。

 ・1回戦 明星2-0関学、御影2-0奈良、神戸8-0堺中、姫路1-0京都

 ・準決勝 明星1-1姫路、御影1-0神戸

 ・決勝 御影1-0(1-0)明星
の記録がある。準決勝で明星が1-1の同点で決勝に進んだのについて注釈は付いていない。ただし、この頃の試合で同点の時はCK(コーナーキック)の数で決めていたから、この場合もそうだろう。

 この大会は「日本フートボール大会」といい、大阪の毎日新聞社が主催したもの。大正6年12月22、23日の2日にわたって社告を掲載し、「アッソシエーション式とラグビー式の2競技を、第1回日本フートボール優勝大会として開催する」ことを告げている。

 日本にサッカーが初めて伝わったのは、明治6年(1873年)。英国海軍のダグラス少佐が部下たちとプレーしたことになっている。そして明治11年(1878年)に創立された文部省の体育伝習所、のちの東京高等師範(現・筑波大学)を通じて、教育系の学校(広島の高等師範や、各府県の師範学校)へ紹介され、また、これとは別に外人教師によってサッカーを始める学校もあった。

 大正6年(1917年)5月には東京芝浦で第3回極東大会に、日本のサッカーも初参加(2戦2敗)。関西では師範学校や、中学校の対戦が行われるようになっていた。ただし、サッカーとは言わず、アソシエーション・フットボールまたは簡略してア式蹴球と言っていた。

 ラグビーの方は、明治32年(1899年)慶應義塾の英語教師クラークが、同校で指導したのがはじまりで、このころ関西では同志社や第三高等学校、京都一中、京都一商などがプレーしていた。関西在住の慶應OB・杉本貞一氏が、ラグビー普及の方策と考え、大阪毎日新聞にラグビー大会開催の企画を提案したのだった。

 関西では朝日新聞社主催の全国中等学校優勝野球大会が大正4年(1915年)に始まっていたこともあり、この企画が受け入れられたが、ラグビーだけでは参加チームが少ないために、アソシエーション式(サッカー)と同時に開催し、名称をフートボール(フットボール)に統一した。日本を冠したのは、「全国的な規模に」との意向と、ラグビーの始祖である慶應の参加が前提だったと思う。関東に試合相手のいない慶應は、このとき西下しているが、12日に神戸外人クラブ(KRAC)と試合したため、疲労を理由に試合を棄権している。相手が年少の京都一商だったためだったためかもしれない。

 ・ラグビー式 1回戦 全同志社19-0三高、京一商(棄権)慶應

 ・ラグビー式 決勝 全同志社31-0(14-0)京一商

 こうしてアソシエーション式と、ラグビー式の二つのフットボール大会の総合大会は始まった。


(ジェイレブ JAN.1993)

↑ このページの先頭に戻る