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vol.29 ドイツ(下)


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“サッカー、くに、ひと、あゆみ”は、ワールド・チャンピオンの西ドイツ・シリーズの最終回です。世界最強のチームを生み出した西ドイツは、今度、東ドイツとの統一ドイツとなり、サッカー界も統合されます。そこで、今月号は、これまで目を注ぐことの少なかった東ドイツ・サッカーの現況や、あゆみを勉強しながら、統合への頭と準備としました。
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2チームが統一リーグへ

 西ドイツの3度目の優勝で幕を閉じたイタリア・ワールドカップ。その余韻の残る8月中・下旬、ヨーロッパのサッカーは新しいシーズンに入り、各国は90−91シーズンのリーグをスタートした。その一つ、ドイツ民主共和国(東ドイツ)の1部リーグは14ヶ国で争われるが、91−92シーズンから西ドイツとの合併を控えている東ドイツにとっては、今度が最後の1部リーグとなる。
 来シーズンからは、この14チームのうち、上位2チームだけが統一ドイツのブンデスリーガ(全国リーグ)20チームの中に加わることが決まっている。また、すでに92年のヨーロッパ選手権(開催地スウェーデン)の地域予選第5組に登録していた東ドイツは出場を取り消し、同じ第5組に入っていた西ドイツが統一ドイツとしてドイツの名前で出場する。そのため、9月12日に組まれていたベルギー対東ドイツの試合は取り止めとなり、入場券を発売しテレビ放映の準備を整えていたホームのベルギー側は、経済的な損失を生じるなどの問題も生まれている。


530万人の世界一のサッカー国

 今、ヨーロッパ・サッカー連盟は、加盟国35、総登録クラブ数26万8033、登録レフェリー42万502人、登録プレーヤー1千954万4552人という、地域のスポーツ団体としては類をみない巨大な組織で、その整然たるゲーム運営は、国際サッカー連盟(FIFA)の中でのモデルでもある。
 その中で、西ドイツはクラブ数2万1510、チーム数12万4501、プレーヤー476万5146人、レフェリー6万2687人。東ドイツもまた、クラブ数5771、チーム数3万3014、プレーヤー57万7700人、レフェリー2万5721人と大きな勢力で、この両者が合併すれば、総計7千万人の国民をバックに、サッカー人口は、クラブ数/2万7281、チーム数/15万7515、プレーヤー/534万2846人、レフェリー/8万8408人となる。
 これは登録プレーヤー数でUEFA(ヨーロッパ・サッカー連盟)全体の25%を越え、人口2億の大国ソ連の登録プレーヤー480万300人をも抜く、スーパーな勢力となってしまう。

 もちろん、今度の2つのドイツという国の統合には多くの問題があるように、スポーツの大組織の統合もノープロブレムというわけにはいかないだろう。
 特にサッカーというスポーツは地域社会に根を降し、そのトップリーグの成績は地域対抗といった感情をバックに、ときに(アマチュアであっても)地域の経済にまで及ぶだけに、東ドイツのトップリーグからの後退は大きな問題となるだろう。
 そうした将来の問題については、別に考えるとして、まず、東ドイツのサッカーの歩みを振り返ってみよう。


第2次大戦の占領から分轄へ

 1945年5月、第2次大戦でドイツが連合国側に無条件降伏し、6月に連合国側はドイツを米、英、フランスとソ連の4つの占領地域に分轄し、同時に当時のドイツの首都ベルリンも4つに分轄された。
 その後、ナチス・ドイツを倒すために共に戦った4ヶ国は、米・英・フランスの3国とソ連が対立するようになり、占領行政も一致しなくなって、49年5月、西側3ヶ国の占領地域を統合してドイツ連邦共和国(西ドイツ)が生まれる。
 これに対抗して、ソ連占領地域でもドイツ民主共和国(東ドイツ)の憲法が公布され、54年3月にこの国が発足。ベルリンも3国の占領地区(西ベルリン)とソ連占領地区(東ベルリン)に完全に分かれた。

 こうしてスタートした社会主義国家のなかで、東ドイツのサッカーは、まず「セクチオン・フースバルDDR」(SEKTION FUSBALL DDR=ドイツ民主共和国フットボール・セクション)が設けられ、この団体はすぐに全国選手権を開催、48年にはSGプラニッツが初代チャンピオンになった。
 次いでカップ戦も1年後に導入。52年にはFIFA(国際サッカー連盟)に加盟が認められ、この年、初の国際試合をポーランドと行なった。国際交流の相手は、同じ東欧社会主義国家だったが、58年にはワールドカップの予選でウェールズやポルトガルといった西側の国々とも試合するようになった。


72年、東ドイツのメダル獲得

 61年「ドイッチャー・フースバル・フェアバンド・デア・DDR」=DEUTSCHER FUSSBALL-VERBAND DER DDR(東ドイツサッカー連盟)は、ハンガリー人のコーチ、カロリー・スースに代表チームの強化を委ねた。彼の指導によって東ドイツのサッカーは急速にレベルアップし、のちにオリンピックやワールドカップで活躍するようになる。
 国の積極的なバックアップを受けた社会主義国の選手が、オリンピックで活躍するのは52年のヘルシンキ大会から。サッカーは以後、80年のモスクワ大会まで東欧社会主義国が金、銀、銅をほとんど独占する形となり、西側のチームでここに割って入ったのは、60年のデンマーク(銀メダル)、68年の日本(銅メダル)だけだった。大戦直後の立ち上がりが、他の東欧諸国に比べて遅かった東ドイツも、64年の東京オリンピックで銅メダルを獲得してから、このメダル争いに参加するようになる。

 72年、西ドイツでのミュンヘン・オリンピックで東ドイツは、1次リーグをポーランドに次いで2位となって2次リーグへ進出。2次リーグはハンガリーに敗れたが、開催国西ドイツを3−2、メキシコを7−0と破ってA組の2位となり、B組2位のソ連と3位を争い、2−2と引き分けてともに銅メダルとなった。
 4年後の76年モントリオール大会は、前回チャンピオンのポーランドを倒して初の金メダル。80年のモスクワ大会では、準決勝でホームチーム、ソ連を1−0と撃破し、決勝ではチェコに0−1で敗れて銀メダル。64年以降、80年までの5回の大会で、優勝1回、準優勝1回、3位2回という堂々たる成績だった。

 オリンピックだけでなく、74年のワールドカップ西ドイツ大会では、予選を突破して本大会に出場。1次リーグはオーストラリアを1−0で破り、チリには1−1の引分け、ベッケンバウアーの西ドイツに1−0で勝って、第1組のトップで2次リーグへ進出。2次リーグではブラジル(0−1)、オランダ(0−2)、アルゼンチン(1−1)といったサッカー大国と戦い、決勝には進出できなかったが、固い守りと鋭いカウンター攻撃は高く評価された。


東ドイツのクラブと欧州のカップ戦

 サッカーだけでなく、オリンピックの陸上競技や、水泳では、東ドイツはメダル争いの大きな勢力となったが、西欧のプロと争うサッカーのヨーロッパのクラブ・カップ戦でも強チームを脅かす。さすがにチャンピオンズ・カップ、各国のリーグ優勝チームが争うこのカップ戦ではベスト4に入るのもむずかしく、ディナモ・ドレスデンやカールツァイス・イエナ、ディナモ・ベルリン、あるいはVベルリンやカールマルクス・シュタットなどがベスト8で敗退している。が、カップ・ウィナーズ・カップでは、74年にFCマクデブルクが決勝でACミランを破って優勝している。

 準決勝の相手が、ポルトガルのスポルティング・リスボン(1−1、2−1)だったから、西欧、それもラテン系の強チームを排しての栄冠だった。
 このときの攻撃の主力となったのがシュパルバッサー。同じ年のワールドカップで、前述の対西ドイツ戦勝利の1点を奪ったストライカーだ。

 マクデブルク市は、この国では西より、エルベ河沿いにある人口29万の河港の工業都市。古い時代から交易で栄えてきた。FCマクデブルクは、昨シーズンをあわせてリーグ優勝5回、カップ優勝4回。
 カップ・ウィナーズ・カップでは、カールツァイス・イエナが81年に、ロコモチフ・ライプチヒが87年に決勝に進み、イエナはソ連のディナモ・トビリシに1−2、ライプチヒはオランダのアヤックスに0−1で敗れている。カールツァイス・イエナは、名のとおりイエナ市にあるが、ここは光学機械のカールツァイス社が第二次大戦後、1部は西ドイツへ移ったあと、東ドイツでも国営企業として高い技術を売り物にしてきた。クラブは、その国営企業の名をつけている。 ロコモチフ・ライプチヒは、ライプチヒ市の鉄道従業員スポーツクラブ。ロコモチフは機関車の意味で、東欧ソ連ではロコモチフ・モスクワが鉄道クラブとして有名。ライプチヒは中南部の大きな都市(56万人)で鉄道の中心。1407年創立の大学があり、16世紀に宗教改革のマルチン・ルターが法王側と大論争した「ライプチヒ戦争」の教会もある。

 国内リーグの最多優勝は、ベルリン市に本拠を置くディナモ・ベルリンの10回(79〜88年までの連続)。次いでフォルバルト・ベルリンの6回、ディナモ・ドレスデンの6回となっている。
 ディナモ・ドレスデンは、カップでも6回優勝している強豪クラブ。ドレスデン市は南東部エルベ河中流、ベルリンの南190キロにある人口51万、交通、商工業の中心地。ディナモ・ドレスデンは52年に創立され、ディナモ・スタディオン(3万8000人収容)を本拠としている。

 今年の欧州カップには、まずチャンピオンズ・カップにマクデブルクとリーグ優勝を最後まで争ったディナモ・ドレスデンが出場し、1回戦でウニオン・ルクセンブルクと当たる。カップ・ウィナーズ・カップには、シュベリン(ベルリンの北西217キロ)が出場し、1回戦をFKオーストリアと対戦。UEFAカップには、マクデブルクが1回戦でフィンランドのロバニエミと顔を合わせ、昨シーズンまでのカールマルクス・シュタットが、今シーズンからチェムニッツァーと名を新しくして、西ドイツのボルシア・ドルトムントと1回戦を争う。
 これらの名門クラブが、ドイツ代表として、この次に欧州の舞台に登場するのは、一体いつになるのだろうか――。


今、再び東西一つに統合へ

 古代のローマ帝国が地中海を中心に大きな勢力圏を築いたころ、ヨーロッパの中央部を北へ流れるライン河と、同じ地域から源を発して東へ流れるドナウ河あたりまでが、その勢力の限界だった。この勢力内にある現在の西ドイツ、ケルン市。わたしたちサッカー人には“左足の芸術家”オベラーツ、そして日本人・奥寺康彦がブンデスリーガで最初にプレーした「FCケルンのホーム」として知られているが、このケルンという地名は、もともとコロニア(植民地)という言葉からきている。そんな古い時代の話はともかく、ドイツの統一といえば、18世紀のプロシアの台頭と、フリードリッヒ2世(大王)あたりから始まらなくてはなるまい。

 西洋史、あるいは世界史で習った記憶をたぐれば――。
 18世紀中ごろ、プロシアの発展をひたすら心がけたフリードリッヒ二世の専制君主によって、プロシア王国は、ずば抜けた力を持つようになる。しかし、この勢力もフランスに現れたナポレオンによって、しばらくは押さえられるが、やがて、そのナポレオンの力も落ち、ワーテルローでの巻き返しにも敗れてしまうと、プロシア王国は再び力を貯え、1870年にナポレオン三世のフランスと戦争。この勝利の勢いに乗って、プロシア王ウィルヘルム一世は、パリのベルサイユでドイツ皇帝に即位し、ドイツをひとつの帝国とした。
 こうして、中世以来、小さな候国が分立していたドイツが1つに統合され、中部ヨーロッパで、西隣のフランスや東南のオーストリアなどの大国と拮抗する力を持つようになる。しかし、1914年に第1次世界大戦となって、ドイツはほとんど単独で(オーストリア、ハンガリー帝国という老大国と組んだが)米、フランス、ロシアと戦い、のちにはアメリカも参戦。1918年に大戦は終結しドイツは無条件降伏する。
 大戦後の巨額の賠償金で壊滅状態となったドイツだが、この混乱の中からヒトラーが現れ、ヒトラーのナチス・ドイツによって、39年、第2次大戦が始まり、45年までの6年間、全世界を戦争に巻き込むことになる。そして、第2次大戦の敗戦によるドイツの分轄占領から、東ドイツと西ドイツという2つの国がつくられ、それぞれ45年の歴史ののちに、今、再び1つに統合されようとしている。

 こうした長い歴史を背景にし、独自の風習や文化を育ててきたドイツの各地域は、国として統一されても、決して画一的になることはなかった。今度の統合によっても、東の人たちは、あるところではプロシア的な尚武の気風を持ち、あるところでは、技術へのひたむきさを押し出すなど、さまざまな個性が見られるハズだ。
 サッカーという同じルールのもとでプレーするスポーツであっても、こうした地域差、個体差が、それぞれ特色あるクラブをつくり、それがまた強力なチームを構築する原因になる。
 東ドイツという同じドイツ語圏であっても、別の個性をもつ地域や人を受け入れることで、ドイツのサッカーは、また大きく、深くなっていくことだろう。新しい仕事で、むずかしい壁はあるとしても、ベルリンの壁を取り払ったように、彼らはきっと成功するに違いない。


(サッカーダイジェスト 1990年11月号)

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