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大正末期、ビルマ人の指導で全国制覇

 東京・蔵前にあった東京高等工業高校(現・東京工業大学)に留学中のチョー・ディン(CHOW DIN)が日本人にサッカーを教えるようになった経緯は分からない。しかし、そのころインドの一部として英国の勢力下にあったビルマ(現・ミャンマー)には、英国の軍人や技師、あるいは貿易商などによりサッカーが持ち込まれていたから、チョー・ディンは当然、英国発行の技術指導書を読んでいたに違いない。そしてサッカー好きで、自分もプレーする彼が、やたらにボールを前にキックするだけの日本の試合を見て、コーチをしようという気になったのではないかと思われる。

 大正11年(1922年)に彼のコーチを受けた早稲田高等学院が、大正12年の全国高校選手権(旧制)で優勝したことで、チョー・ディンの指導を願うチームが増えた。そうした折りに、関東大震災(1923年9月1日)が起こった。

 東京は潰滅状態で、東京高等工業高校も、校舎が全壊して休校となった。そこで、その休校期間を利用して、巡回指導が始まった。

 当時、早稲田の学生だった玉井操(故人1903〜1978年、関西サッカー協会会長)は、彼について関西に出かけ、御影師範での指導を助けた。

 師範学校は今の教育大学の前身で、小学校の先生を育成。日本のサッカーは東京師範学校(現・筑波大学)にまず導入され、ここから教育系の学校へと広まったので、各府県にあった師範学校の多くは、それぞれの地域でサッカーの先駆者となっていた。

 関西でも、京都の京都師範、大阪の天王寺師範、兵庫の姫路師範などが強チームを生んだが、神戸の御影師範はサッカー部(ア式蹴球部と言った)の創立が明治29年(1896年)と古く、大正7年から始まった全国フートボール大会(現在の全国高校選手権の前身)には第1回から第7回(大正13年2月)まで連続優勝した。


(ジェイレブ OCT.1992)

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