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神戸一中のサイドキックとショートパス

 神戸一中も第1回全国フートボール大会から連続参加しているが、御影師範に勝つことができなかった。師範学校の生徒の方が2歳年長であったこと、また全寮制で練習も十分であったことが原因だが、16〜18歳のこのころで、2歳違えば、体格も体力も相当違うから、このハンデを詰めるのは大変だった。

 そのライバルをビルマ人のコーチが教えていると知った神戸一中のメンバーは、チョー・ディンが休みの日に宝塚歌劇を見物した機会をとらえて、宝塚グラウンドで半日の指導を受けた。

 「いろいろの基礎プレー。インステップキックや、サイドキックの基本、正面のタックル、スライディング・タックル、ショートパスの使い方、スルーパスの基本なども教わった。理路整然と説き、また自分で模範を示してくれたから、わずか半日ではあったが、我々は習ったことを理解し、これ以後は熱心に練習した。この成果が大きく、大正14年(1925年)1月の全国大会決勝で、御影師範を3-0で倒す初優勝につながった」と神戸一中サッカー部史に大正14年卒業の北川貞義が記している。

 チョー・ディンは、「How to Play Association Football」という本を大正12年に発行していて、しっかりとした指導理念の持ち主だったが、玉井操さんは、その直弟子の一人。後に神戸財界、スポーツ界の名士になったこの先人は、かつて私にこう言った。

 「ボールを蹴るのに、インステップや、インサイド、アウトサイドといった足の部分による分類や、それを実際の試合で使うか---といった理屈は、当時の私たちにはなかった。そうした基本的な知識だけでなく、試合での相手との駆け引きや、ドリブルの際のフェイントなど、実践面でも教わることが多かった。たとえば、ゴールが見えたらシュートしろ---などということもあった。」

 「神戸一中は、彼の教えを反復練習でものにし、特にサイドキックの上達がショートパス、それもダイレクトパスを多用するチーム戦術につながったのだと思う。」

 今の情報反乱の時代とは、全く逆の時期。宝塚のグラウンドに集まった若者は“渇をいやす思い”で、チョー・ディンの教えを聞いたのだろう。より恵まれた環境の選手よりも吸収が早く、体格の劣るものの勝つ道を「技術の向上と、ショートパス」に求め、相手DFの背後へ送る独特のスルーパスは、やがて全国の注目を集めた。前号で紹介した昭和5年の勝利の伏線はこのあたりにもあった。


(ジェイレブ OCT.1992)

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