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1930年極東大会「完全に体を使い果たすまで...」

 5月29日、いよいよ日本-中国の決戦。当時の「アサヒスポーツ」(グラビアスポーツ紙)の大会特別号を見ると、神宮競技場のスタンドにはぎっしり人が入っていて、関心の高さがしのばれるが、そのなかで午後3時キックオフ。

 日本は前半23分、相手のドリブルの名手・曹のボールを奪った左のFB竹内から、左ウイングの春山にパス。春山が、左サイドから中央に送って、DF手島が決めて、1-0とした。

 しかし、中国もCF載が、ドリブルで突破してシュートを決め、同点。

 日本のパスは後半もさえて、12分に篠島-高山から、高山のシュートのリバウンドを手島が2点目。中国は左からのクロスを載が決めて2-2。このあと日本にPKのチャンスがあったが、失敗。27分に竹腰-高山とヘディングでつなぎ、ゴール前へ落としたのを篠島が突っ込んで再びリード、3-2とした。相手のドリブルによるピンチを一度は防いだが、中国は載と葉のコンビで日本のDFラインを割り、載がシュートして3度目の同点。

 死力を尽くしての攻防は、タイムアップまで続いて引き分けとなり、大会本部で再試合を協議したが、中国チームは賛成せず、両チームの1位、選手権は預かりとなった。

 「ボールがよく見えなくなって、頭の後ろが熱くなったらタイムアップの笛が鳴った。いつやったのか、膝が猛烈に痛んだ」(篠島秀雄)---全力を尽くした選手たちの中でも、最も動きの激しい竹腰主将は、試合が終わると立てなくなった。世話役の田辺五兵衛は、私にこう言っていた。

 「試合のあと、ノコさん(竹腰)を宿舎の日本青年館まで背負っていった。途中で担ぎ直そうとしたら、彼はしりもちを突いてしまった。完全に体を使い果たしていたのだ」

 トップチームが中国と互角以上の試合をしたというだけでなく、その準備期間に東西の優秀プレーヤーが、はじめて一堂に会して練習をし、サッカーを語り合ったこと、これが次のベルリン五輪をはじめ、第二次世界大戦前のサッカー向上、さらには日本全国への普及につながったと言える。

 栄光の代表チームは、GK斉藤才三、FB後藤靭雄、竹内悌三、HB野沢正雄、竹腰重丸、本田長康、FW高山忠雄、篠島秀雄、手島志郎、若林竹雄、春山泰雄、SUB阿部鵬
二、杉村正三郎、井出多米男、市橋時蔵の15人だった。


(ジェイレブ SEP.1992)

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