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昭和4年、個性的な甲子園南運動場の誕生

 2002年のワールドカップ開催に向かって日本の各地で、大阪、横浜、神戸、名古屋をはじめ多くの都市が会場として立候補をしている。大会を機会に各地に素晴らしいサッカー場---それも東京の国立競技場を模した一律のスタイルではなく、それぞれの地域や、都市のモニュメントとなる個性的なスタジアムが建設されるとうれしいのだが...。

 そんなことを考えるとき、いつも思うのは、阪神間の甲子園にあった「甲子園南運動場」のことだ。

 春と夏の高校野球のメッカであり、プロ野球の阪神タイガースのホーム球場である甲子園球場が生まれたのが、大正13年(1924年)で、その年が干支(えと)でいえば、「きのえ・ね(甲子)」であるところから甲子園と名付けたことは知られているが、その巨大な球場を造った阪神電鉄株式会社は、その5年後に野球場の南---海岸に近いところに「南運動場」を建設した。竣工は昭和4年(1929年)5月26日、計画の当初は陸上競技場とラグビー、サッカー場とを別々にする案だったが、土地の経済的利用という点で、陸上競技のトラックの中に球技用のフィールドを置く併用型となった。

 東京に造られていた明治神宮外苑の競技場(今の国立競技場の前身)が400mのトラックの内側に、投てきやジャンプのピット、それにサッカー、ラグビーのフィールドを入れたため、球技場として最上とは言えなかったこともあって、南運動場のトラック1周は500m、コーナーはカーブを緩くし、球技場を収まりやすくした。

 従ってサッカーはタテ119m、巾75mを取ることができ、ラグビー場は110ヤードと、75ヤード。跳躍の砂場はトラックとスタンドの間に設けた。

 西側に設けられたコンクリート造りのスタンドは前面の高さ2m、弓形をして跳躍場を囲む形だったから、グラウンド全体が見やすかった。向こう側にはスタンドはなく、塀があるだけで松林越しに鳴尾競馬場のレースをスタンドから眺められた。収容力2万。貴賓席や会議場、宿泊施設もあった。

 少し深めの芝生の競技場は、戦前の私たちサッカー少年の憧れであり、東西対抗や、朝日招待などのビッグゲームの会場となって、メッカとしてのかくも付き始めた。野球場から南運動場までの広大な土地は、テニスコート群と、センターコート、そして日本記録を生んだ水泳プール(スタジアム)が設けられ、阪神パークという遊園地とともに、類のない大スポーツ、レジャーゾーンを形作ったが、第二次大戦中に海軍がこの地域に目を付け、阪神パーク、動物園、水族館、南運動場、の敷地と諸施設を接収。対戦後は米軍の倉庫となり、ついに南運動場は消えた。

 14年間の短命なグラウンド、甲子園南運動場は、スタジアムを外から眺めた風景、自分がプレーしながらスタンドを見上げた時のことが、今でも鮮やかに頭に浮かぶ。

 そんな想いとともに私は、中央(東京)のまねでなく、新しい自分たちのスタジアムの建設にかけた、昭和のはじめの企業人のスケールとスポーツ人の意欲に頭が下がるのだ。


(ジェイレブ DEC.1992)

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