賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >vol.7 韓国

vol.7 韓国


 NHKをはじめ、テレビ各局のオリンピック報道は、競技だけでなく、韓国の歴史や風物、ソウル市民の暮しや田舎(いなか)の風習なども紹介してくれるし、新聞や雑誌、書籍などでも“ソウル”“韓国”の記事がどんどん氾濫するようになった。
 日本と一番近くにあり、一番古くから密接なつきあいのあった韓国や朝鮮半島について、知識の薄かったわたしたちも、このオリンピック・クラッシュのおかげで、韓国についての知識が多少はふえてきたのはありがたいことだ。
 そんな、いわば“韓国ブーム”のなかで、わたしはある一つの遠い昔の風景を思い浮かべる。


43年前、ある小学校の校庭で

 1945年(昭和20年)9月のある日、朝鮮半島の鳥致院(チョウ・チ・ウォン)、いまの韓国の首都ソウルより150キロほど南にある、田園都市にいたときのこと。
 兵舎がわりに寝起きしていた小学校の教室から、雨に濡れたグラウンドをみると、ボールが1個、ポツンと置いてあった。
 陸軍の飛行隊に入って1年半ばかり、その間に、ほとんどボールに触れるチャンスのなかったわたしだったが、そのボールにつられて、一段、低いところにある校庭へ降り、編上靴(へんじょうかく=編み上げ靴のことを陸軍ではこう呼んでいた)で蹴ってみた。
 4号球だったか、いささか空気が抜けて、ボソッとしていたが、久しぶりのボールの感じが懐しかった。障害物競走の訓練に使ったと思われる大きなボードがあったので、それに向かって軽く蹴っていると、この土地の子どもが一人、いつの間にか横にあらわれた。  わたしがボールを、その子どもの方へパスをすると、いったん止めてから、ポンとボードへシュートした。そのはねかえりを、こちらが蹴ると、こんどは子どもがそれを蹴った。蹴ってから、わたしの方を向いて、ニコッとした。
 しばらく、ボールを互いにボードにぶつけて楽しんだ。細かい雨のなかで、あたりが薄暗くなると、その子どもは黙ってボールを拾った。
 ああ、ボールはこの子どものものだったか、と思いながら、わたしは「じゃあ、さよなら」というと、彼はボールを抱えて黙って校庭から出ていった。


特攻隊員と小学生のボール蹴り

 太平洋戦争での日本の戦勢が、だいぶ怪しくなってきた昭和19年(1944年)に、わたしは陸軍航空の一員となり、昭和20年(1945年)3月に北朝鮮にいた。海州という飛行場で特攻隊の編成をし、仲間とともに練習機に爆弾をつけて特攻訓練をした。
 それが8月15日に終戦となり、第5航空軍の命令で南朝鮮に移動し、大田(テジョン)市の少し北方にある、この町へやってきたのだった。
 久しぶりの「ボール蹴り」のあとしばらくして、わたしたちは小学校の教室を出て、郊外の農家の牛小舎を借りて10月中旬まで滞在することになったから、少年とボールを蹴ったのは、結局1回きりだったけれど、わたしにはあの小雨の校庭での風景が、いつまでも心の中に残っていて、作業衣(いまでいうツナギ)を着てボールを蹴る自分と、少年と、障害用ボード。そして、不思議なことに少年の顔は全然記憶にないのに、ボールを蹴る格好は、ちゃんと映像として頭の中に描けるのだ。
 朝鮮半島の人たちにとって、不快きわまりない日本の統治が終わった直後であり、その日本のひとつの象徴でもあった軍人には、少年や少年の周辺の人たちは特殊な感情を持っていたに違いない。
 そんな相手と、20分〜30分ボールを蹴っていた間、彼が何を考えていたのかわからないが、わたしには、ニッと笑った彼と、なんとなく通じ合えたと思っている。
 この少年、もし健在なら50〜55歳。いまどのような思いでオリンピックを迎えるのだろうか。


1936年ベルリン五輪のスーパースター、孫基禎さんのこと

 オリンピックと韓国を結びつければ、古いスポーツファンは、まず第一にベルリン・オリンピックのマラソンで優勝した、孫基禎(ソン・キ・ジョン)さんを思い出すだろう。
 当時、12歳だったわたしは、孫さんの優勝に刺激されて、夏休みの後半、マラソンと称して家の周囲を何周かするようになったものだ。
「民族の祭典」というレニー・リーフェンシュタール女史製作のベルリン大会の記録映画で、わたしは孫さんが右手をちょっと回すようにして走るのを知り、しばらく、そのスタイルのマネをしたものだ。
 1900年生まれの孫さんは、ベルリン・オリンピックの前の年に、当時の世界最高記録を出し、また、オリンピックの国内予選でも、まず朝鮮地方での予選レースで走ったあと、東京での日本代表選考レースに出場した。鉄道と連絡船を乗りついでの長い旅行は、大きなハンデのハズだが、彼にはそれを克服する力があった。


サッカーの神様・金容植さん

 孫さんの出場したベルリン・オリンピックでは、日本サッカーも参加し、スウェーデンを破ってヨーロッパ人を驚かせたが、このときのメンバーに金容植(故人)さんがいた。
 孫さんのマラソンと同じように、きわめてタフで、運動量の多いMFとして、またドリブラーとして、プレースキックの名手として有名だった。
 昭和10年の日本選手権大会に優勝した全京城蹴球団のCHを務めたほか、ある時期のビッグ・イベントであった三地域対抗(関東・関西・朝鮮)での朝鮮代表チームの軸でもあり、いわばこのころの朝鮮地方のフットボーラーの典型で、かつ象徴的な名選手だった。
 1951年、スウェーデンからヘルシングボーリュが来日したとき、わたしは西宮球技場で、ある紳士から「1936年の日本はスウェーデンに勝ったが、こんどは勝てないでしょう。あのときの日本には金容植という韓国の選手もいたが、こんどはいないからネ」と言われたこともある。


サッカーは日本統治時代からの花形スポーツ

 金さんが活躍したベルリン・オリンピックから太平洋戦争までは、日本サッカーの盛期で、同時にまた朝鮮地方でサッカーが普及し、レベルが上がっていた。普成専門、迅禧専門という2つのカレッジを頂点に、さらには社会人をふくめた京城蹴球団(全京城)、咸興足球団などといった選抜チームも結成されて、日本選手権や神宮大会で猛威を振い、また中学校(旧制)にも優秀チームが傑出して、全国大会(現・全国高校選手権)などでもタイトルを握るようになっていた。
 昭和15年(1941年)の夏の全国中学校大会のチャンピオンとなった普成中学は、1回戦から圧倒的な強さをみせたが、ひとりひとりのボールテクニック、夏の炎天下での活動量、走力、どれをとっても内地のチームより一段上だった。
 昭和16年(1942年)の秋の神宮大会(この年は全国的大会はこれだけだった)で、わたしの神戸一中は普成中学と試合し、2−2で引き分け、両校1位となったが、その前日の実業団の試合で、朝鮮代表チームが関東代表(日立)に逆転勝ちすると、スタンドからあふれたファンが選手を肩車にして喜び合った。当時としては異例だったが、これは日本の統治で抑圧された朝鮮半島の人たちの感情が、サッカーの優勝によって爆発したものといえた。
 もともと、スポーツの勝敗には地域対抗意識がつきまとうのは自然の理だが、この頃は、特に“内地”への対抗意識が強く、また、それが厳しいトレーニングの励みの一つになっていたことも、また事実だろう。
 わたしたちはというと、中学校のころはただ、彼らの技術や体力に目を見張り、それに負けぬようにするには、どうすればよいかを考え、話し合い、実行していた。かつては兵庫県で優勝すれば、全国で勝てるといっていたのが、朝鮮代表チームの参加によって、全国のタイトルを握るためには、まず彼の地のチームに勝てる力を持つことが課題となっていた。
 そんな戦前のサッカーの経験者であるわたしには、韓国のサッカーを思い、語るとき、親しみと懐しみとともに、自分のサッカーの歩みと重なってくるのも、お許し願いたい。


朝鮮動乱の苦難に耐えて

 さて、1945年、新しい国としてスタートした韓国は、まず1948年のロンドン・オリンピック大会にチームを送る。
 サッカーの監督は金容植さん。彼の指導の下にノックアウトシステムの1回戦で韓国はメキシコを5−3で破った。アマチュアであっても中米のサッカー国を倒したのは立派な記録だが、2回戦の相手がスウェーデン、こんどは0−12の大敗となった。スウェーデンは、このとき有名なグンナー・グレン、グンナー・ノルダール、ニルス・リードホルムのFWのトリオがいた。彼らは12年前に“極東のサッカー小国”に負けた痛い経験をもとに、韓国に対しても手を緩めなかったらしい。
 オリンピック初参加をステップに上昇しようとする韓国サッカーは、1950年6月から1953年7月までの朝鮮動乱のために苦しむ。首都ソウルが2度も北朝鮮軍に占領され、国土の大半が戦火にさらされたこの戦争で、市民は大きな痛手を受けたが、スポーツもまた例外ではない。

 1954年のワールドカップでは、極東予選で日本を押さえて代表権を獲得し、スイス大会に参加したが、1次リーグでは“無敵”ハンガリーに0−9、トルコにも0−7で敗れた。崔貞敏のような新しいストライカーが育ちはじめたが、まだ戦中、戦前の(高年齢)プレーヤーもいて、彼らの誇る(ハズの)体力の面でも、欧州勢に見劣りした。
 1956年のメルボルン・オリンピック予選は日本と1勝1敗の末、抽選で極東の代表権を日本に奪われ、1960年のローマ・オリンピック予選は日本には勝ちながら、台湾との試合でレフェリーの判定に異議を唱え、結局、失格となった。
 1964年の東京オリンピックは、アジア地域からイラン、北朝鮮と韓国が予選を勝ちあがった。しかし、北朝鮮は大会直前になって一部の競技の選手の質格問題で、全選手団が不参加を表明して帰国した。韓国は10月12日のC組の最初の試合で東欧の雄・チェコに0−6で敗れ、以後、士気は上がらず、10月14日はブラジルに0−4、16日はアラブ連合に0−10で大敗した。


1万個の“募球”サッカー復興は少年から

 世界の檜舞台では、いつもその大会の最強チームと顔を合わさなければならない不運はあったにしても、東京オリンピックの大敗は、サッカー界に沈滞ムードを投げかけた。
 日本がたとえ1勝だけにしても、南米の王国アルゼンチンに勝ち、華やかな話題となったのに比べられるだけに、韓国のサッカー関係者はつらい立場だったハズだ。
 そんなとき、1965年1月1日の京郷新聞(チョヒャン・シンブン)は、事業社告で「少年たちにスポーツを、1万個のボールを集めて、地方の子どもたちにもボールを贈り、サッカーをしてもらおう」という提唱をした。
 朝鮮動乱のあと、ワラを巻いてボール代わりに遊んだときもあった。用具がないため子どもたちは運動不足になっていた。サッカーボールがひとつあれば、学校の校庭で何人でも遊べる。だから、山間部の小学校、海辺の小学校、全国の隅々にまで、小学校や孤児院にボールを贈り、子どもたちにスポーツを楽しませ、明るさを取り戻そう―――という趣旨だった。
 提案者の甲徳相(当時・京郷新聞のスポーツ記者、日本エアシステム勤務)氏の回想によると「新聞への反響は大変なもので、1月4日に新年の初出社をしたら、まず延世大学の1年先輩の呉完建(オー・ワン・コン)さんから電話があり、趣旨に賛同してボールを4個寄贈するといってくれました。彼はいまの韓国サッカー協会の国際担当副会長です。呉さんだけでなく、多くから賛意と励ましが寄せられ、1万個のボールは2ヶ月で集まりました。全国の小学校にくばったのです。そのころ10〜15歳くらいの子どもたちは、いま33歳〜38歳くらいの働き盛りになっているハズです」と。


若手に切り替え絶頂期の日本と激戦

 少年への浸透を計画し、普及に努める一方で、協会は代表チームの大幅な若返りを図った。
 1966年、アジア大会にも若手主力で出場し、1967年秋、日本で開催されたメキシコ・オリンピック予選にも若いメンバーで戦った。
 中国(台湾)、レバノン、ベトナム、フィリピン、韓国、日本と6ヶ国の1回戦総当たり方式のリーグで、日本と韓国はそれぞれの第4戦で顔を合わせた。それまで3戦全勝の両チームは歴史に残る激戦の末、3−3で引き分け、韓国は最終戦でフィリピンを、日本はベトナムに勝ってともに5勝1引分け。得失点差で日本がメキシコ・オリンピックへの出場をつかんだ。
 このとき、代表チームに初めて起用されたのが金正男(キム・ジョンナム)―――現在のオリンピック・チームの監督。たしか、このとき杉山隆一をマークしていた。
 若いチームで、釜本、杉山、八重樫らの当時アジア最強といわれた日本代表と引き分けた。いや、あと30秒というところで、あのバーを叩いたシュートがはいっていたら、勝ったかも知れない―――というまで、日本を追いつめた。その日本が翌年、メキシコ・オリンピックで銅メダルに輝いた―――このことは、彼らにとって、どれだけ口惜しかったか、そして同時に、どれだけ励みになったことか―――。


アジアのトップから世界をめざす

 メキシコの栄光から足踏みし、停滞する日本と違って、韓国のトップ・チームは、アジアでのタイトルマッチに勝ち、アジア大会で、アジア・サッカー選手権で、アジア・ユースで、いつも最強チームの一つに挙げられるようになる。
 マレーシアのムルデカ大会をはじめ、アジアの各大会で、韓国チームは「タフで、技術が高く、戦闘的」だと評価され、韓国の出場は大会での大きなアクセントにまでなった。
 1986年、メキシコW杯での韓国は、マラドーナのあのアルゼンチンに1−3で敗れ、ブルガリアに1−1、イタリアに2−3と、1分け2敗だったが、東欧の雄ブルガリアと互角に戦い、W杯3度優勝のイタリアを悩ませた試合ぶりは、アジア・サッカーの躍進と、韓国の充実を示したものだった。
 アジアでの評価が高まり、W杯でも足跡を記した韓国にとって、開催国としてオリンピックでの栄光への願いはひとしおだ。
 残念なことに、72年のミュンヘン・オリンピックは、マレーシアに敗れ、76年モントリオールは、イスラエルに押さえられ本大会に出場できなかった。82年モスクワは、再びマレーシアに負け、84年ロサンゼルスは、2次リーグA組2位となりながら、B組2位のイラクとの決定戦で敗れてアジア代表(3チーム)に入れなかった。
 広大なアジアの27ヶ国による予選は、会場によって気候や風土が大きなハンデになり、代表となってオリンピックに出場するには、実力と運がなくてはならない。しかし、今回は開催国のおかげで予選はなく、準備も十分。なによりメキシコW杯での自信もある。1次リーグはアルゼンチン、ソ連、アメリカと同じ組で、いずれも強いが、まず1次リーグを突破し、勢いにのってベスト4に入り、メダルへの道を突進してほしいと全ての人々が願っている。
 韓国サッカーが長い努力の花を咲かせるよう、古い仲間として、こちらからも声援を送りたいと思う。


◆韓国メモ1:古・朝鮮の抛球楽は蹴鞠と関係があるのか?

 中国に古代からあった蹴鞠が、日本に伝わって「けまり」(蹴鞠)といわれ、盛んに行なわれたことは知られている。その日本の蹴鞠は、ゴール(門)がないのが普通だが、中国では、北宋の時代に2個の門を使うのと1個の門を使う競技があったようで、1個の門(毬門)を使う場合は、門の両側にチームが位置して、門の上方・中央にある「風流眼」という穴にボールを通したものだという。
 この風流眼をもった毬門(きゅうもん)と同じ形の門が古い時代の朝鮮半島にもあったという話がある。
 ただし、これは中国でいう蹴鞠門でなく、抛球楽といって、音楽に合わせて女性がボールを投げて穴を通す遊びであったらしい。
 中国から朝鮮半島へ伝わっていくうちに、ボールを「蹴って」「風流眼を通す」のが、「投げて、風流眼を通す」のに変化したのかも知れない。同じ構造の門を作った遊びで、「打球楽」というのもあったそうで、言葉の上からいくと、これはボールを打って穴を通したものだろう。
 門を使って、門の全部、あるいはその一部にボールを通して得点を競うのは、今日のサッカーの原型だが、中国と朝鮮では門を使いながらボール扱うのが、足と手と違っていること、日本では足を使う蹴鞠は江戸時代まで続いたが、どの文献にも「門」について触れていないのも面白いところ。
 この話は、わたしたちの大先輩、田辺五兵衛さん(故人)に聞いたのだが、あるいは朝鮮半島でも、ボールを蹴って風流眼を通していたという事実が、そのうちに発見されるかも知れない。
 オリンピックは現代の競技の勝敗や水準向上だけでなく、こうした古い時代の“遊び”を発掘し、研究し、発表するチャンスでもある。


◆韓国メモ2:ティ・チョン・ツーとジャキ・チャキ、神戸の“おじゃみ”

 蹴鞠(けまり)が朝鮮半島にあったかどうか−はともかくとして、中国のティ・チョン・ツーによく似たジャキ・チャキは、子どもたちの遊びのひとつだったらしい。中国のティ・チョン・ツーは銅銭を数枚かさねて、羽毛をつけ、それを足で蹴りあげていた。インサイド、アウトサイド、ヒールなど蹴る部分をかえ、あるいは右足、左足の両方を使うことでバリエーションをつけていた(東南アジアでは、籐のボールをこうして遊ぶ)。わたしは子どものときに、神戸の中国人街で子どもたちが遊ぶのを見たが、神戸では彼らの影響で、小豆を小さな袋にいれ(少女たちはお手玉にした)たのを足で蹴って回数を競ったものだ。
 朝鮮半島でも、銅銭を蹴っていたそうで、田舎では松の実(ソル・バング・ウル)を蹴っていたという話もある。


(サッカーダイジェスト 1988年11月号)

↑ このページの先頭に戻る