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第41回 二宮洋一(1)戦前のサッカー人気の中心として輝いたストライカー

タイガースとユナイテッドの株上場

 村上ファンドが阪神電鉄の株を38%所有したことから、この電鉄の子会社である「阪神タイガース」の株の上場の話が持ち上がってきた。
 テレビのコメンテーターの中には、イングランドのサッカーでも、マンチェスター・ユナイテッドなどはすでに株を上場しているから、世界的傾向なのでしょう――と言う人もあった。
 まぁ、そうだろうと思うが、ここでひとつ根本的な違いは、ユナイテッドの株の上場は、このクラブの会長マーティン・エドワーズが決めたこと、つまりクラブの意志で決めているのに、「タイガース」の上場云々を決めるのは球団自身ではないということである。
 ここに日本のプロ野球の特殊性があり、長い歴史を持つ日本のスポーツの持つ非世界性があるのに、優秀なメディアも、評論家たちも、そのことについては口をつぐんだままプロ野球の改革論を唱えているところが面白い。
 歴史の長い日本の野球だから、監督やコーチだけでなく、球団やリーグの経営に関わる野球人がどしどし生まれてほしい。そうでなければ、いつまでも企業戦略の一環としてのプロ野球のままでゆくことになるだろう。
 それじゃあ、サッカーのJはどうなんだ、ということになると、話は長くなるから別の機会に譲って、このあたりでこのページの本題に戻ることにしたい。


朝日新聞の天藤記者の賛辞

 マイフットボールメモリーズの中から頭に刻み込まれたサッカー人を、ほぼ一人を3回ずつで綴ってきた。前号までは大黒将志のプレーからの連想で、ワールドカップ史上の個人最多得点記録(2大会で14ゴール)を持つゲルト・ミュラーだった。その流れを受けて、今回から二宮洋一(にのみや・ひろかず)さん(1917−2000年)に移る。
「二宮の前に二宮なし、二宮のあとに二宮なし」とは、戦前、戦後に朝日新聞の記者であった天藤明(てんどう・あきら)さんの賛辞である。
 いまのサッカーの興隆、日本代表やJリーグに集まる観客数や、テレビ、新聞のメディア関係者のサッカーへの傾倒ぶりに比べると、昔のサッカー人気は本当に微々たるものという感じがするが、サッカー史を紐解く人たちは、1936年のベルリン・オリンピック以降から太平洋戦争までの間のサッカーの盛り上がりに驚かされることが多い。ベルリン帰りの日本代表を主力とする早大と、上昇期にあった慶大との試合で、神宮競技場(現・国立)のスタンドから観客があふれて、キックオフが遅れたこともあったし、昭和14年の神宮大会の決勝、慶應BRB(関東代表)と当時、日本の一部であった朝鮮地方代表、咸興足球団の一戦は満員の観衆(もちろん朝鮮系の人も多い)の熱気とともにすごい迫力であったと伝えられている。競技場の収容能力が小さくはあったが、サッカーとしては画期的だった。
 二宮洋一は、こうした1930年代後半、大戦前のサッカー光彩期にあって最も輝いたスター・ストライカーだった。「二宮の前に――、」は彼が大学を卒業するときの記事であったと記憶している。
 日本代表のストライカーの系譜としては、JFA(日本サッカー協会)が初めて選抜チームを編成した第9回極東大会(1930年)の手島志郎(東大、故人。1907−1982年)ベルリン・オリンピックの川本泰三(早大、故人。1914−1985年)そして、二宮洋一へと続くのだが、川本のプレーが自らの工夫を凝らしての“禅味”にあるとすれば、二宮洋一は、速く、上手で、闘志が目に見えて明らかで、誰が見ても理解しやすいところにスター性があった。


すごいジャンプヘディング

 長身ではなかった。戦前はイングランドでも6フィートといえば大柄であったころ、彼はよく、イングランドでは5フィート8インチがCF(センターフォワード)の一般的サイズ、僕は5フィート6インチしかないんだと言っていた。ただし、そのジャンプ力とヘディングの強さは抜群で、上背のあるゴールキーパーがパンチするボールに果敢にジャンプし、GKのセービングさながらに水平の姿勢で落下するという豪快な場面をたびたび見せた。
 体が大きくてヘディングが強い釜本邦茂がヤンマーに入ってから、ヤンマーのディフェンダーはもちろん、チーム全体のレベルが上がったが、慶大もそうだったらしく、昭和15年の関東大学リーグで4連覇を達成したとき、優勝をかけた帝大(東大)との試合はヘディングの勝利であった――と川本泰三の批評にあった。
 利き足は右だったが、右も左もシュートはうまかった。左肩を前にした半身の構えで、右サイドの篠崎三郎へのパスをDFの前にスクエアにするか、背後へのスルーパスにするか、それも頭上を越すのか、内側をグラウンダーで通すのか――といった選択は見事で、後輩たちはその持ち方のドリブルを真似したものだ。
 ヒザが強くて柔らかい。強く、速いパスをヒザを上げて足に当て、ピタリと殺す形は、とても美しかったし、胸のトラッピングなどもそのころの仲間ではずば抜けていた。慶大の寮の鴨居にボールを吊るして、常に頭や上半身で触れていたという。

(週刊サッカーマガジン 2005年10月25日号)

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