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第42回 番外編 フランツ・ベッケンバウアー 絶体絶命のピンチを切り抜けた“皇帝”

D-HAUSでのレセプション

 ドイツ大使館の隣につくられた「D-HAUS」(デーハウス)のレセプションで、ベッケンバウアーに会った。
 ワールドカップ・ドイツ大会の組織委員会の会長さんとして、日本の同大会への出場を祝うパーティーのための来日だった。会長は、テヘラン、リヤド、ソウルを回って東京にやってきた。出場国全部へ「おめでとう」を言うために、飛び歩くのだという。記者会見では、テレビのマイクがたくさん突きつけられ、「どこが強いと思うか」「決勝はどんな組合せが会長として望ましいか」など、さまざまな質問が出ていた。
 選手時代のプレーもスマートだが、60歳となって、やや頭の上が寂しくなった今でもスリムで、受け答えもスマートだった。現在は会長さんであっても、私にはフランツ・ベッケンバウアーはやはりカイザー(皇帝)と呼ばれた選手時代を、つい思ってしまう。
 そこで、記者会見を終わってテーブルに戻ろうとする本人に聞く。
「フランツ、31年前のミュンヘンでの決勝の話を聞きたいのだが、いいでしょうかね」
 立ち止まった彼に「前半1−1となってから、突然あなたは大ピンチを迎えた。ヨハン・クライフがハーフウェー・ラインを越えてあなたに向かってドリブルしてきた。ドイツ側のエンドには、あなた一人、ディフェンダーは誰もいなかった。相手の左サイド、つまりあなたの右のオープンスペースにはレップがいた」
 こちらの英語に彼も英語で答えてくれる。「覚えているよ。ヨハン・クライフがドリブルで向かってきて、レップが開いていた。私はその状況を一瞬に見てとった」
「あなたは、あのとき見事に防いだが、最初にどう決心したのだろうか」


クライフのドリブルをスローダウン

「うん、私は、まず、クライフと距離(間合い)を保ちつつ、彼のスピードを殺すようにした(スローダウンさせた)」
「クライフのドリブル突破を防ぎつつ後退したんですね。試合の後でビデオを見て勘定したら、7歩ぐらいだった。そしてクライフは左のレップへパスを出した。レップのシュートは前進したGKマイヤーがセーブした。あなたはマイヤーが防ぐと期待していたのだろうか」
「マイヤーはあの日、とても調子が良かったからね」
 攻める側からいえばクライフが最後のDF、ベッケンバウアーを引きつけて、ノーマークのレップにパスを出したのだから、正解だったハズだが……。
 形としては正解だったが、ベッケンバウアーが走るというより、クライフとの間合いを保ちつつ、スタスタといった感じで後退していったところに、マイヤーがシュートコースを狭くするためにポジションを取る時間を生んだのだろうと思う。
 時間に限りのある立ち話だったから、そこから先には至らなかったが、まずクライフと距離を保ち(ドリブルで抜かせない)、飛び込まないで彼のスピードのスローダウンを図った、という言葉を聞いただけで私には十分だった。


1対1だけではなく1対2も

 74年ワールドカップ決勝のこの場面を私は今でも忘れることができない。開始後すぐにクライフがドリブルで西ドイツのペナルティー・ペナルティエリア内で倒されてPKとなり、ニースケンスが決めて1−0。しばらくして、西ドイツのヘルツェンバインがPKを取り同点となった。勢いづいた西ドイツが攻勢に出て、フォクツがマーク相手のクライフを置いてけぼりにして攻め上がるなどした。先ほどの話のピンチも、フォクツが攻めに出て、パスを出して前へ出たときに、ファンハネヘンにぶつかられて倒されてしまい(笛はなし)、そこからクライフがノーマークでドリブルすることになったのだった。
 相手が二人、しかもボールを持つのはヨハン・クライフで、対応するのはベッケンバウアー一人という難しい場面を、彼はクライフのドリブル突破を防いでレップにパスを出させ、レップのシュートをマイヤーに止めさせた。
 多くの批評家はこのチャンスに得点できなかったレップのミスと記しているが、やはり、ここはベッケンバウアーの判断と対応、さらにキャプテンの動きに合わせたマイヤーとのコンビが絶体絶命のピンチを救ったのだと思っている。
 日本のサッカーは1対1が弱いと自ら認めているが、1対1になっても、必ず負けると思わないこと、1対2でも防ぎ得ることもあるのを知ってほしい。
 ヨハン・クライフとの80年のインタビューでは、この場面を直接には尋ねなかったが、彼はこのライバルのことをこう言っている。
「フランツ・ベッケンバウアーは、ピッチ上でいつも正しい判断をした」と――。
 今回の番外編はベッケンバウアーとクライフの名場面になったが、この連載の現在のテーマ、二宮洋一さんがクライフ的ゲームメーカーであったことと、多少どこか関係があったかもしれない。


(週刊サッカーマガジン 2005年11月1日号)

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