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第43回 二宮洋一(2)中学生でショートパスを覚えストライカーの技を磨いて慶応義塾で開花した

1日100本シュートの伝統

 欧州の予選敗退組のラトビアと2−2、2006年大会出場のウクライナと0−1、試合の内容はテレビで見る限りまずまずのものだったが、結局は、点を取るべきところで取らないと苦しい試合になる――という、これまでどおりのことがあらためて確認された。
 これまでどおりのことを確認とは――何を今さらと、誰しも思うが、それがサッカーというもの。取るべきチャンスにゴールを取れるよう、たゆまずに練習する以外にない。ただし、それぞれのポジションにあるプレーヤーが、その取るべきチャンスを上手に生み出すために、そして、そのシュートチャンスに立ち会うプレーヤーが必ず取れるというほどに練習しているか、どうか――。
 この連載の「二宮洋一(にのみや・ひろかず)」さんは飽きることなくゴールを狙い、左、右のシュートとヘディングの練習を繰り返したセンターフォワード、1日100本シュート練習の伝説の主である。
 二宮さんが生まれ育ったのは神戸、大正6年(1917年)だから第一次大戦中のこと。ヨーロッパを戦場としたこの戦争で、日本は貿易で利益を得ていたときだった。大正12年に御影師範付属小学校に入学した。御影師範は、東京高等師範(現・筑波大学)の流れを汲んで、関西では最も早くサッカー部の強くなったところ。いまの高校選手権の前身・日本フートボール大会の常連校であった。洋一少年が入学した年が、ちょうどビルマ人のチョー・ディンが全国巡回指導をしていたときで、御影師範にも一週間滞在して教えたと伝えられている。学校全体のサッカー熱で、小学生は誰もがボールに触れる。
 昭和5年(1929年)に神戸一中(現・神戸高校)に入学して、サッカー部(当時はア式蹴球部といった)に入る。当時の5年生には右近徳太郎(36年ベルリン五輪代表)3年には播磨幸太郎(黄金時代の主将)がいた。


パス攻撃の伝統を築いた神戸一中

 小学生でボールを蹴ることを覚え(今と違って、このころから私たちの時代までは小さなテニスボールを蹴っていた)遊びのうちにボール扱いに習熟した子どもたちが神戸一中の独特の練習を経て上達してゆく。神戸一中は、大正末期にチョー・ディンに基礎技術を習ったことから、体格に優れ、ドリブルとロングキックを多用する御影師範に勝つためには「短いパスをつないで、スルーパスをディフェンスの裏へ通す」というショートパス戦法で、小柄で小回りの聞く特性を生かすようになっていった。
 この学校の43回卒業生である私から見て20歳年長の23回生の高山忠雄、小畠政俊のころに、すでに第7回日本フートボール大会をはじめ各種大会に優勝して黄金期への歩みを開き、31回の大谷一二、加藤正信たちは昭和5年すでに予選制をしく全国大会となった南甲子園での大会を制し、34回生、小橋信吉、播磨幸太郎たちも予選で兵庫御影師範(5−4)を倒し、全国大会で埼玉(4−0)大阪・天王寺(10−1)愛知一師(3−0)そして決勝で青山師範(2−1)と、すべて2歳年長の師範学校を破って優勝している。
 このときのレギュラーに3年生からGK津田幸男、FB大山政行、FWの田島昭策、直木和たちはすでに出場しているが、二宮洋一はまだ出場の機会はなかった。先輩たちの話によると、まだ体ができていなかったらしい。
 次の年度は最上級生が一人だけで、3、4年生主力では師範学校に勝つにはもう一年を必要とした。
 昭和9年度、36回生を5年生とするこの年のチームの記録はまことに痛快なもの。冬にあった全国中学選手権が、夏に移行(オリンピックが夏という理由)されることになり、昭和10年1月に予定された大会はなくなり、この年は代替大会として夏に全国招待大会が開催されたのだが、この招待大会を含めて4つの大会に優勝した。招待大会は1回戦で刈谷(4−2)準決勝で御影師範(5−1)決勝で明星(5−3)を破った。同じカテゴリーの中学校、師範相手でなく、秋に旧制インターハイのナンバーワン、第六高に挑んで3−2、全国専門学校大会優勝の神戸高商にも5−3で勝った。
 一人ひとりは決して大きくはないが、俊敏でパスとドリブルの組合せが巧みで、FWでは4年生の大谷四郎のシュートや二宮洋一のヘディングが重要なところでモノを言った。
 いささか古い中学生時代の話を持ち出したのは、小学生のときからボールに慣れ、中学生の時には戦術的要素を含めての基礎技術の反復(目的を持っての練習)によって二宮洋一さんが成長していった過程を、今の時代と重ねてみたかったからである。
 2歳の年齢差、体格差を跳ね返すために培った二宮のパス攻撃のセンスと得点力はやがて慶應に入学し、予科1年からレギュラーとなって急速に開花する。播磨幸太郎というパスの名手に恵まれ、オットー・ネルツの理論を基調とした松丸貞一郎監督のもとに、二宮洋一はチームの中核として驚くべき力を発揮するようになる。


(週刊サッカーマガジン 2005年11月8日号)

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