賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >フェレンツ・プスカシュ(1)30歳を超えてなお増した輝き

フェレンツ・プスカシュ(1)30歳を超えてなお増した輝き

「金メダルを取って、得点王にもなった。次の目標はプスカシュでしょうか」
“プスカシュ…偉大な彼のようになれれば、それはうれしいけれど…”
 フェレンツ・ベネは、ちょっと口ごもりながら答え、一瞬、遠くを見る目つきになった。  1964年10月23日、第18回オリンピック東京大会のサッカー決勝が国立競技場で行なわれ、ハンガリーがチェコを2−1で破って大会史上2度目の優勝を遂げていた。この日の試合で2点目を決め、通算12ゴールで大会得点王となったベネの記者会見だった。
 スタジアムの外で、確かときどき小雨が降っていた。取り囲んだ記者は数人だけだった。
 質問が終わる頃、私がプスカシュの名を持ち出したとき、驚異的な12ゴールを叩き出し、ピッチ上で圧倒的な強さを見せていたベネの顔が、夢見る19歳の表情になったのを見た。

 フェレンツ・プスカシュ(そういえばベネは彼と同じ名前だった)。
 1927年4月2日生まれの彼は、昨年11月17日に79歳の生涯を閉じた。ブダペストの病院で闘病生活を続けた末の死去。ハンガリー政府は「20世紀に世界で最も知られたハンガリー人のために」1分間の黙とうを指示、し12月7日の葬儀の当日は服喪の日とした。
 FIFAのヨゼフ・ブラッター会長はハンガリーサッカー協会のイストファン・キシュテレキ会長宛に弔辞を送った。その中で、52年のオリンピック優勝を含む国際試合32戦無敗を記録したマジャールチームの偉大さ、ハンガリー代表84試合で83ゴールという驚くべき彼の得点、ハンガリー陸軍クラブ『ホンペド』を率いての活躍、さらにはレアル・マドリードでのリーグ優勝5回、ヨーロッパチャンピオンズカップ(現・チャンピオンズリーグ)優勝3回、特に60年決勝の対アイントハラト・フランクフルト(西ドイツ=当時)戦(7−3)での4ゴールなどの数々の業績に対する心からの賞賛と、偉大なサッカー人への敬意を表していた。
 残念ながらその生のプレーを見てはいないが、プスカシュは私には長く心に残るプレーヤーだった。一つには、新聞社のスポーツ記者となって初めてかかわったオリンピック、52年の第15回ヘルシンキ大会の優勝者であったこと、そして次の年、サッカーの母国・イングランドの代表、あのスタンリー・マシューズやビリー・ライトたちのスター軍団に、そのホーム、ウェンブリーで歴史上初めて土をつけ、54年ワールドカップ・スイス大会の決勝で敗れるまで無敗を続けたこと、などによる。

 日本サッカー協会が大戦と大戦後の経済混乱の中で停滞が続いていたときに、東のスラブ、西のゲルマンという大勢力に挟まれたアジア系民族マジャール人の小さな国が、世界一の強チームを作り上げたことに、私は大きなショックを受けた。
 社会主義国特有のスポーツ奨励策の一つである軍隊チーム『ホンベド』に優秀なプレーヤーを集め、ナショナルチームの基礎としたのが、新戦術、新しいフォーメーションによる成功を生むのだが、そのホンベドが56年のハンガリー動乱の際にたまたまチャンピオンズカップでの対アスレチック・ビルバオ(スペイン)戦で国外に出ていたことから、チームはブダペストへ帰らず、紆余曲折の末、プスカシュは58年にスペインのレアル・マドリードと契約する。
 イタリアのインテルをはじめとする各クラブが、30歳の高年齢と肥っていたことを理由に受け入れなかったのだが、「サッカーをするには年齢でなく、テクニックだ」という彼の言葉どおり、レアルでの活躍は彼のサッカー人生の後半を輝かしいものにした。このチームの主ともいうべきアルフレッド・ディステファノが、彼の技術を評価し、2人のパートナーシップによってクラブは黄金期を続けた。クラブのサポーターから“カノンチト・プム”(轟く大砲)と呼ばれたシュートで、スペインリーグで4度の得点王になった。

 私が彼に会ったのは一度だけ、93年のキリンカップでハンガリー代表チームとともに来日したときで、長い時間話すことはできなかったが、挨拶を交わし、55年にロンドンで出版された彼の自叙伝『キャプテン・オブ・ハンガリー』にサインをしてもらった。
 その伝記の中で、彼は左足のキャノンシュートの型をどのようにして作ったかを書き込んでいる。彼の素晴らしいプレーとその基礎を、次号でながめてみたい。


(週刊サッカーマガジン 2007年3月27日号)

↑ このページの先頭に戻る