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フェレンツ・プスカシュ(3)衝撃を与えたマイティー・マジャールの要に

「9歳でキシュペスト・アスレチック・クラブに入ると、週2日、クラブで練習できた。日曜または土曜日に試合が行なわれた。私は、まずボーイズチームで、その後ジュニアチームで試合をした」(自叙伝より)

 1943年、16歳で一軍入りしてからのプスカシュは、一軍の試合の後でジュニアチームでプレーする“ダブルトレーニング”を続けた。
 このクラブのトップチームのコーチだった父親も指導とアドバイスをしてくれるになり、当時の名選手たちについても語ってくれた。おかげで、イタリアのジュゼッペ・メアッツァやイングランドのスタンリー・マシューズなどのプレーも熟知するようになる。
 そして名手への思いは“ダブル練習”にも満足しなくなる。

「ポケットにテニスボールを入れ、常に足でタッチするようにした。所用で出かけるときにはドリブルした。暇があれば左足でボールリフティングした。初めは30〜35回くらいだったのが、徐々に回数は増えて、一度も地面へ落とさず200回できるようになった。全く弾ませないで、足の上でピタリと止めることもできた。こうして養った足のボール感覚は、手よりも鋭くなり、どんなボールでも、どの方向からでも止められるようになった」「障害物を置いてのドリブル、最初は左足だけ、次いで右足だけ。繰り返しての練習で、ピッチの端から端まで、一度もボールを見ないでドリブルできるようになった。もちろん、奪いに来る相手はなしだったが――」

 ボールテクニックの上達によって、プスカシュには周囲の状況を見る余裕が生まれ、試合の流れも判断できるようになった。偉大なゴールスコアラーであり、偉大なスキーマー(攻撃の組み立て役)とも言われた彼の素地は、この少年期から16歳での一軍入り、そしてその後の練習で培われていく。
 その頃、彼が考えだした練習の一つに「目隠しキック」があった。得意の左足のプレースキックを目隠しして蹴ることを始めた時には、先輩や仲間も笑ったが、「繰り返しているうちに、明らかに良い結果につながった。目をつぶってもボールは思ったところへ行くようになった。たまに失敗したときは、フォームが悪いときだった」

 このあたりに、名人、上手と言われるプレーヤー特有の“凝り性”が見られる。
 テニスボールのリフティングは、日本でも1936年ベルリン・オリンピック当時の代表センターフォワード、川本泰三さん(1914〜85年)が「中2の頃には200回くらいできた」という話と符合して面白い。

 さて、第二次大戦中もリーグ戦を続けていたハンガリーは、大戦末期に一時の混乱はあったが、1945年夏には戦後初の国際試合をする。相手はオーストリア。ブダペストでの2試合の第2戦(8月21日)に、プスカシュは初めてハンガリー代表として登場した。
 緊張して無我夢中の彼に自信を持たせてくれたのは、大ベテランのジュラ・ジェンゲレール(38年ワールドカップ代表)からのパス。自ら突破し、チャンスを作ったこの先輩は、自分のシュートチャンスだったのにパスを回してくれた。このイージーゴールを決めてプスカシュは落ち着き、デビュー戦(5−2)の勝利に貢献した。彼のハンガリー代表85試合(83得点)の始まりだった。

 ドイツ側に与してソ連軍によって占領されたハンガリーは、48年には共産党支配となる。スポーツも社会主義政権下の新体制となり、国家機関である工場や労働組合がスポーツクラブを管理するようになった。キシュペストは、49年に生まれた陸軍のクラブ『ホンベド』(防衛の意)に吸収された。
 ホンベドは、プスカシュや少年期からの仲間、ヨージェフ・ボジクに、フェレンツ・バロシュからゾルターン・チボール、ドローグからGKジュラ・グロシチが加わり、49−50年シーズンのチャンピオンとなった。ホンベドを軸にリーグは活気づき、各クラブもレベルアップしたが、ハンガリー代表の成績は今一つだった。
 ハンガリー・サッカー協会はグスタフ・セベシュを代表監督とし、セベシュはホンベドを中心にチームを作り、新しいハンガリー代表のスタイルと戦術を作り上げることに心を砕いた。セベシュとプスカシュの工夫はマイティー・マジャール(偉大なマジャール人)を生み、世界に大きな衝撃を与える。それは25年後のオランダのトータル・フットボールにも匹敵するものだった。


(週刊サッカーマガジン2007年4月10日号)

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