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フェレンツ・プスカシュ(4)「WM」の時代に現出した2トップの新戦術

 3月24日のキリンチャレンジカップ2007、日本代表対ペルー代表(横浜)で、中村俊輔のFKからの2ゴールを見た。そして終盤に「日本の目指す方向」(オシム監督)のプレーもあった。
 1点目は、巻誠一郎のヘディングだった。長身でヘディングが強いはずの巻が、ここしばらくゴールしていないのは飛んでくるクロスに関係があると見ていた。
“上がって、落下してくる”俊輔のFKは彼にとって久しぶりのゴールとなった。
 後半の2点目も、ほぼ似た位置からのFKだったが、今度は「上から落とす」のではなく、高原直泰と中澤佑二の後方へ蹴った。それを高原がゴールを背にして左足で止め、反転して右足のボレーで決めた。トラップしたボールを中澤も蹴る態勢にいるほどすぐ近くだったが、テレビのスロー再生で見た高原は、ボールから目を離すことなく、きちんとシュートし、GKフォーサイスの手の届かぬところへ送り込んだ。左足トラップから反転し、振り足のバックスイングからインパクトへ移っていく一連の所作はまことに美しく、ブンデスリーガで実績を重ねている証を見るようだった。

 さて本題のプスカシュに。
 1950年代から60年代に活躍したプスカシュの物語の中で、ハンガリー代表の新戦術は避けて通ることができない。
 当時の欧州各国では、イングランド流の「WMシステム」が主流だった。このシステムでは2人のハーフバック(HB)がゲームを組み立てる。彼らは攻めと守りのバランスを保ってプレーし、GKと3人のフルバック(FB)が主として守りを、そしてフォワード(FW)のウイングとセンターフォワード(CF)の3人が攻めの役を担った。ここからさまざまなバリエーションが生まれることになるが、それぞれのポジションの役割や位置は試合中でも大きくは変わらなかった。今のように流動的、組織的な選手の動きは少なかったから、それぞれのチームのスターのプレーが注目の的だった。

 そういう時代に、ハンガリー代表が1952年ヘルシンキ・オリンピックで見せた新しいシステムとポジションの役割は、これまでと大きく異なっていた。彼らは各ポジションについてのコンセプトを持っていた。

(1)GKと3人のFBは守りを主とするのはそれまでと同じだが、GKはときにはペナルティ・エリアいっぱいまで出てFBの仕事もする。ボールを取れば素早く投げて攻撃を始める。
(2)FBはカウンター攻撃のスタートとなること。危険地帯からのクリアは仕方がないが、常にパスをつなぐこと。
(3)HBの仕事は主に守りで、相手のインナー(インサイドFW)をマークするとともに、チームの攻撃の準備をする。
(4)ウイングFWは広く動く。攻撃では従来と変わらないが、必要な時はペナルティ・エリアまで戻り、DFを助け、相手ウイングや他の選手を防ぎ、ボールを奪い、前方へ送ること。流れの中では中へも入ってくる。
(5)インサイドFWは攻撃の先端となり、ゴールを決めること。同時に守りでは相手のHBやFBを困らせること。
(6)CFは攻めの準備が最大の仕事だが、ディフェンスにも責任を持ち、相手HBのうち1人をマークすること。

 ざっと、こういう原則的な役割と、それとは別に数えきれないくらいの申し合わせがあり、FWとHBのポジションチェンジなど、相手を驚かせるための動きの必要性が強調されていた。この新しい「M型FW」への移行は、それぞれのポジションに適役を得て、ホンベドのグラウンドで組み合わせが試された。
 CFのナーンドル・ヒデクチが、いわゆるディープな位置にあってプレーメイカーとなり、シャーンドル・コチシュとプスカシュの2人のインナーが2トップとなる。右のラースロ・ブダイと左のゾルターン・チボールの両ウイングはやや後方に。「最も偉大なHB」ヨージェフ・ボジク、イムレ・コバチまたはヨージェフ・ザカリアスのHB、右のジェノ・ブザンスキ、中央のペーテル・パロターシュ、左のミハリ・ラントシュの3DF、GKのジュラ・グロシチといったハンガリー代表は、ヘルシンキで金メダルを獲得した。

 この大会を取材した産経新聞の特派員・木村象雷(きむら・しょうらい)さん(故人)は、大会前にヘルシンキで行なわれたフィンランドとの親善試合でのメンバー表を持ち帰ってくれた。水泳の大家だがサッカーは素人だったこの人は「システム、それはよく分からないが、ハンガリーのFWにはパスを受けると目にも止まらぬ早業でターンし、シュートする選手が3人いた。その1人がプスカシュで、ヘルシンキでも有名だった」と語っていた。
 その“目にも止まらぬ早業”は翌年、ウェンブリーでも発揮される。


(週刊サッカーマガジン 2007年4月17日号)

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