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フェレンツ・プスカシュ(5)サッカーの母国の誇りを打ち砕いた破壊力

 1953年11月25日、ロンドンのウェンブリースタジアムに集まった10万の観衆は、イングランド代表がハンガリー代表に敗れるのを目撃した。
 この年6月2日にエリザベス女王の戴冠式を国中が祝った。その直前に、英国登山隊のエドモンド・ヒラリーとテンジンによる世界最高峰エベレストの初登頂(5月29日)の報が届き、喜びは倍加した。
 第二次大戦が終わって8年、苦境を切り抜けた自信の上に、新しい誇りを加えた年だった。そのプライドの一つ、サッカーの母国と自他ともに認めるイングランドの代表が3−6で完敗した。ヨーロッパ大陸のチームに対するホーム不敗の神話が崩れただけでなく、自分たちよりもはるかに素晴らしいサッカーを見せつけられたのだった。

 極東の島国にいた私たちにも、このニュースは大きな衝撃だった。
 そしてニュース映画で見たキックオフ後1分のハンガリーの先制ゴール。20mものロングシュートの白いボールが糸を引くようにゴールに吸い込まれた映像は、今も驚きをもって思い出すことができる。
 ハンガリー代表はすでに、52年ヘルシンキ・オリンピックの優勝を含んで国際試合25勝6分けの記録を持っていることは知られていた。彼らの新しい2トップの戦略やパスワークについても評判になっていたが、イングランドでは、ヨーロッパや南米での新しい戦略も、しょせんはフィニッシュ――ゴールを奪う力という点では自分たちよりも劣ると見ていた。
 しかし、今度は違っていた。いきなりヨージェフ・ボジクとヨージェフ・ザカリアスの2人のハーフバック(HB)とセンターフォワード(CF)のナーンドル・ヒデクチの3人の連係による中央突破の気配からの気配から、ヒデクチが20mシュートを敢行した。あっという間の先制ゴールだった。

 ハンガリー側は、ウェンブリーへ乗り込む前に、入念な準備をした。体力を練り、チームワークの確認をした。自分たちのやり方もある程度予測されているだろうから、ポジションチェンジなどでそれを惑わせる。例えば、深く引き気味になるCFのヒデクチは、初めは突出するとか、いくつかのバリエーションを用意していた。
 15分に1−1となったが、5分後にハンガリーの2点目、フェレンツ・プスカシュ→ゾルターン・チボール→シャーンドル・コチシュと渡った後、ヒデクチが決めて再びリードした。そしてその2分後に3点目――コチシュからチボールへパスが出て、チボールが右サイドを突っ走り、奪いに来るエカーズリーをかわしてゴールラインに近づき、戻し気味にパスを送り、エリア内に侵入していたプスカシュが受け、タックルに来るビリー・ライトをかわし、左足シュートを叩き込んだ。
 ボールを左足で受け、ソールで引いて、タックルをかわし、もう一度押しだして、左足でシュートという一連の所作は、まさに目にも止まらぬ早業。サッカーを生み出し、世界へ送り出したイングランドのサポーターは、まるで別のプラネットから来たチームを見る思いがしたという。
 そのプスカシュは、ボジクのFKをヒールに当てて方向を変え、4点目を加えた。イングランドはモーテンセンのゴールで1点を返し2−4で前半は終わったが、すでに勝敗は明らかだった。

 ポジションチェンジを交えた何本かの短いパスが続くかと見ると、30m、ときに50mの長いパスが正確に届く。マジャール人たちは疲れを知らぬかのように素早い動きを繰り返し、フィニッシュの力は想像を超えていた。
 後半にもボジクとヒデクチがそれぞれ加点した。ヒデクチ自身の3点目は、プスカシュからのロブをボレーで蹴ったもの。イングランドは、のちに代表監督となるアルフ・ラムゼーのPKによる3点目を報いただけだった。
 1試合でこれほど大きなインパクトを与えた例はかつてなかった。すでにヘルシンキでアマチュアのイタリアを撃破したハンガリーは、その後、プロのイタリア代表にも勝っていた。そして聖地ウェンブリーで、スタンリー・マシューズやビリー・ライトといった錚々たるスターの揃うイングランド代表をも倒したのだった。

 5ヶ月後、イングランドは新しいメンバーでリベンジを誓ってブダペストへ向かったが、1−7で大敗。ハンガリーはウェンブリーとほぼ同じ顔ぶれだった。
 プスカシュをはじめとするハンガリー代表の一人ひとりの技術の高さ、止める、蹴るという基本の正確さと速さは、イングランドのプロを超え、カーブパスも信じられないほど正確だった。高い技術と新しい戦術、そして代表としての練習量の豊富さ、彼と仲間は「マイティー(マジックとも言うが、)・マジャール」と呼ばれ、誰もが1954年ワールドカップでの優勝を予想したのだった。


(週刊サッカーマガジン 2007年4月24日号)

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