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フェレンツ・プスカシュ(6)ワールドカップ決勝で喫した唯一の敗戦

 1954年、第5回ワールドカップ・スイス大会は6月16日に始まり、ローザンヌ、ジュネーブ、チューリヒ、バーゼル、ルガーノ、ベルンの6都市を会場に、まず4グループでの1次リーグ、次いでグループ上位2チームによるノックアウト方式に入り、準々決勝、準決勝、決勝へと進んでいった。
 フェレンツ・プスカシュ率いるハンガリーは第2組に入り、17日の第1戦(チューリヒ)の相手は韓国だった。この年の3月、東京での予選2試合で日本を押さえ、スイスへ乗り込んできた韓国だったが、個人技術でも、動きの量でも、戦術面でも大きな差を見せつけられた。プスカシュは12分の先制点と89分の12点目を記録した。

「一直線上にボールを並べて、一番手前のボールを蹴り、先にある狙ったボールに当てる。そういうカーブパスができないとダメだ、とプスカシュさんに言われた」とは、韓国の李裕襟コーチから、その2年後に聞いた話である。
 この大会の1次リーグは総当たりではなく、シードチーム同士は対戦せず、各チーム2試合ずつ、それで順位が決まらないときは再試合をすることになっていた。ノーシードの西ドイツ(当時)は、第1戦で第2シードのトルコ(予選でスペインに勝っていた)を1−1で下していた。

 未知数の西ドイツと戦うためにハンガリーはベストメンバーを揃えたが、西ドイツのゼップ・ヘルベルガー監督は、ここで敗れてもトルコとの再戦に勝てるとの計算から、5人の主力を休ませ相手のプレーを偵察する策に出た。
 ハンガリーは入念に計算された練習と大会への準備で最高潮に仕上がっていて、3分のシャーンドル・コチシュ、17分のプスカシュとゴールを重ねたが、5−1となった54分にプスカシュが西ドイツのリープリヒのタックルを受け、左足首を痛めてしまった。10人になっても(当時は交代はなし)、ハンガリーはなお3点を加え、西ドイツも2点を返して8−3で終わった。

 1勝1敗、韓国に勝った(7−0)トルコも1勝1敗で、そのプレーオフを西ドイツは7−3で制して、準々決勝、準決勝と南米勢のいないゾーンを勝ち上がることになる。
 プスカシュのダメージはひどく、ハンガリーは主将を欠いて、まずブラジルと戦うことになる。“ベルンの戦い”と呼ばれたこの一戦は、4−2でハンガリーの勝ちとなったが、ブラジル側に退場2人、ハンガリーもヨージェフ・ボジクが退場、ミハーリ・トートが負傷して、タイムアップのときには双方9人ずつという有り様。試合終了後、ブラジル側がハンガリーの更衣室へ殴り込みをかけるという騒動まであった。
 今では考えられないが、両チームの更衣室がすぐ近くにあり、勝った側の喜びの騒ぎが(ドアが開いていて)ブラジル側にこれ見よがしに聞こえたのが騒ぎの原因とか。
 前回チャンピオンのウルグアイとの準決勝も、厳しく、ときにラフプレーもあったが、スポーツ的で、この大会で最もレベルの高い試合とされた。2−2から延長となっての4−2の勝利は、ハンガリーの練習量の多さ、各選手のチームへの献身によると、プスカシュは言った。

 6月30日の、このバーゼルでの準決勝から、7月4日の決勝までの中3日間は、プスカシュの決勝出場が可能かどうかが大きな話題となっていた。一般の論調は、彼が出場できなくてもハンガリー有利というものだったが、プスカシュ自身の強い意志とドクターの判断もあって、ベルンのバンクドルフ・スタジアムでのファイナルにはマジック・マジャールの全員が揃った。
 前半6分にプスカシュが先制ゴールを決めたときには、彼の復活とマジャールの優勝は間違いないと誰もが思った。この日、左サイドへ移っていたゾルターン・チボールの2点目がその2分後に決まって2−0となり、いよいよその感が強くなった。
 しかし、西ドイツはひるまなかった。
 この大会に付き物だった雨も、ゲルマンに味方した。マックス・マーロックとヘルムート・ラーンのゴールで前半は2−2で終わった。
 一度大勝した相手に2−0から同点にされたうえ、ぬかるむピッチは疲れを早める。完全に回復したわけではないプスカシュの動きも鈍る。84分にラーンが3点目を決めた。  絶望的な形勢の中で、今度はプスカシュが裏へ回って同点ゴール――だが、オフサイドの判定。信じがたい「最強チームの敗戦」となった。

 表彰式で、FIFA(国際サッカー連盟)のジュール・リメ会長は、銀メダルをプスカシュに渡すときにこう言った。
「金が銀よりも喜ばれる限り、これらのメダルを見ると、あなた方と仲間は次の機会に金に変えたいという気持ちになるでしょう。そうなるように祈ります。あなた方は、それに値するから――」
 残酷な敗戦だったが、10回ものチャンスを逃した反省も忘れなかった。彼とハンガリー代表は、この年の秋から再び世界を目指す。2年後に、人生の大転換がやってくるのだが…。


(週刊サッカーマガジン 2007年5月1日号)

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