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フェレンツ・プスカシュ(7)キャリア晩年の輝き 〜レアルで築いた不滅の大記録〜

 1954年のワールドカップ・スイス大会決勝で不敗記録にピリオドを打たれたフェレンツ・プスカシュとハンガリー代表だが、次の2年間で28試合を20勝5分け3敗(97得点、41失点)と好成績を残し、彼らがなおヨーロッパの実力者であることを示した。
 プスカシュ自身もまた26試合で13得点を重ね、56年10月14日の対オーストラリア戦のゴールで代表83得点目(84試合)を記録。先輩のイムレ・シュロサーの持つ代表75試合の記録を抜きたいという、彼の目標の一つが達成された――今回のシリーズで、彼とマイティー・マジャールについての文献を読み返してみて、1920年代にプロ制度を導入したハンガリー・サッカーの当時の技術レベルの高さと、またそれに対するプスカシュたちの誇りが感じられたのは新しい発見だった。いい土壌の上にこそ豊かな稔が生まれるということか――。

 クラブチームの強さを示すチャンスもあった55−56年シーズンから、ヨーロッパ・チャンピオンズカップ(現・チャンピオンズリーグ)が始まった。
 プスカシュとホンベドは2年目のチャンピオンズカップに出場し、1回戦でアスレティック・ビルバオ(スペイン)と戦った。アウェーでの第1戦は2−3。
 第2戦はホームで勝てるという予測は、ブタペストで発生した反ソ連政府樹立と、それに続くソ連軍の介入、鎮圧――いわゆる『ハンガリー動乱』で狂ってしまう。
 試合会場をブリュッセル(ベルギー)に移しての第2戦ではゴールキーパーが負傷し(交代制はなかった)、ゾルターン・チボールがゴールを守り、10人で戦った。プスカシュも1ゴールを決めたが、3−3、1分け1敗で敗退した。

 クラブ王座への夢が絶たれ、国内の情勢を見ながら、チームはしばらく国外にあって親善試合の旅を続ける。やがて、帰国するかどうかで選手たちの意見は分かれ、プスカシュとチボール、シャーンドル・コチシュらは西欧のクラブでのプレーを考え亡命を選んだ。
 ハンガリー協会の提訴によるFIFA(国際サッカー連盟)の拘束期間が解けた18ヶ月後、プスカシュは58−59年シーズン初めにスペインのレアル・マドリードと契約した。すでにレアルはチャンピオンズカップを3連覇していた。
 31歳、いささか肥り気味の彼の能力を疑う声もあった。しかし、レアルの主でもあるアルフレッド・ディステファノは自分より1歳若いプスカシュの加入に異論をはさまなかった。
 この年、プスカシュはリーグ24試合に出場して21得点を挙げ、チャンピオンズカップの準決勝、対アトレティコ・マドリード(スペイン)戦1勝1敗(2−1、0−1)の後のプレーオフ(アウェーゲーム得点2倍制はまだなかった)の勝利(2−1)を決めるPKを決めている。ただし、スペインカップでの負傷で、チャンピオンズカップ決勝を欠場した。54年ベルンでの二の舞をしたくなかったのだろう。レアルはフランスのスタッド・ランスを破って4連覇を果たした。

 プスカシュが欧州王座の決勝で輝くのは次の年だった。60年5月18日、グラスゴー・ハンプデンパークでの対アイントラハト・フランクフルト。このドイツチームは準決勝でスコットランドのレンジャーズを6−1、6−3で撃破して勢いに乗っていたが、ディステファノのゴールで2−1とし、後半に入るとプスカシュが立て続けに4ゴールして一気に6−1と引き離し、相手が2点を返すと、75分にはディステファノと33歳のプスカシュの2人での合計7得点は、偉大な才能の結合の証でもあった。
 形勢挽回を図るフランクフルトのバックラインの裏へ、ディステファノのパスに合わせてハーフラインから走り込んでゴールを挙げるプスカシュの走力と速さとシュート力は、まさに驚きだった。

 チャンピオンズカップ5年連続優勝というレアル・マドリードの不滅の記録の後、やや下り坂になるが、プスカシュは62年と64年の2度の決勝にディステファノとともに出場。それぞれベンフィカ(ポルトガル)とインテル(イタリア)に敗れたが、老雄たちはそのレベルの高さを示す。ベンフィカ戦でハットトリックを決めたプスカシュが、自分のユニフォームを渡した相手が若きエウゼビオだったのは、ストライカーの系譜を語るエピソードの一つだ。
 66年に引退するまでスペインリーグで4度得点王に輝き、372試合で345ゴールの記録を残したプスカシュは、ゲームメイカーであるとともにストライカーであり続けた。

 ヨーロッパの中の東洋系のマジャール人で「オチ」(おチビさん)と呼ばれた小柄で偉大なストライカー、ひたすらトレーニングを重ねたプスカシュから私たちが汲み取るものは少なくないと思う。


(週刊サッカーマガジン 2007年5月8日号)

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