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第44回 二宮洋一(3)プレーメーカーでストライカー。37歳で天皇杯決勝、延長4回3時間試合

17歳で5歳の差に挑む

 旧制中学5年生(最上級生)のとき無敵のチームをつくりながら、全国中等学校選手権は開催中止(いきさつは前号に)のため、公式の日本一になれなかった二宮洋一たちは、昭和10年(1935年)に上級学校に進む。同じ神戸一中の仲間から、GK津田幸男が二宮とともに慶大に入った(HBの笠原隆は一浪ののちやはり慶大へ)。
 このころの慶大ソッカー部は、昭和2年に体育会の部として正式に認められてから8年、ドイツの指導書「フスバル(FUSSBALL)」を自ら翻訳し、この新知識のもとに、東大、早大に追いつこうとした努力が徐々に成果を上げ、早大とともに関東大学リーグのタイトルを争うまでになっていた。
 その大学リーグ、いわば大人の試合の中に、予科1年生(17歳)の二宮が投げ込まれる。当時の大学は3年生で、東大や京大などは、旧制の高等学校(3年制)を経た者が入学した。早大や慶大のような私立大学は予科があって、ここで3年間を経て学部に上がる。予科1年からリーグに出るというのは、4〜5歳年長の相手と戦うことになる。昭和10年の関東大学リーグの早慶戦の相手には川本泰三や加茂健といったのちのベルリン・オリンピック代表選手がいた。チームメートには神戸一中の先輩である右近徳太郎や播磨幸太郎の名があった。
 はじめのうちはWフォーメーションの左ウイングだったから、当時の早大ではHB立原文夫、FB堀江忠男のベルリン組が当時の相手だった。
 こういった環境で苦労する者もいたが、伸びる者もいた。一年遅れで入学した笠原隆は「練習に出た初日に、レギュラークラスになっている二宮が見違えるほど上手くなっているのに驚いた」と回想している。


左ウイングでもCFでも

 左ウイングでも得点はした。慶大のユニフォームを着た最初の試合、1935年4月27日の日本選手権関東予選での対早大戦(2−4で抽選負け)で、この17歳の新人は2ゴールを決めた。
 1937年の予科3年からCF(センターフォワード)となる。右から駒崎虎夫(篠崎三郎)播磨幸太郎、二宮洋一、小畑実、猪俣一穂と並ぶFWは、川本泰三の卒業した早大に代わって大学ナンバーワンの攻撃力を備える。このFWを支える笠原隆、松元一見の両HB(守備的MF)宮川光之、石川洋平、加藤嗣夫たちDFとGK津田幸男のメンバーは、昭和12年から昭和15年(1904年)まで関東大学リーグ4連覇のほか、日本選手権(現・天皇杯)3回優勝、東西学生一位対抗戦3回優勝と、タイトルをほとんど独占の形で制した。4年間の慶大チームの公式試合は37戦34勝1分け2敗、総得点170(1試合平均4.6)失点37(1試合平均1.0)で、傑出したスターチームであった。


来日した本家チームに勝つ

 この慶大の黄金期の前半、巧みなドリブルから絶妙のタイミングでスルーパスを出して、ストライカーの成長を助けた播磨幸太郎がやがて卒業し、最高のパートナーを失ったCFはしばらく苦しむことになる。ある時期には「播磨なしでは二宮も威力半減」とまで言われたのを自らが積極的にプレーメークすることで解決していった。
 左、右に開いて、オープンスペースでボールを受けることもあれば、中央でクサビを受けることもある。戻って(後退して)キープすることもある。そこから、仲間にパスを出し、仲間を働かせ、自らはフィニッシュの動きに入っていった。
 昭和15年(1940年)の最上級生であったときのいくつかの試合で、私が見た二宮洋一は、まさにプレーメーカーで、ゴールゲッターだった。
 相手ボールを奪った慶大が、ダイレクトパスでつなぎ始める。軽快だが、やや一本調子なリズムが、二宮のところに来ると、変化がつく。突破すると脅してパスを出し、パスと見せて自らの突破にかかる。パスのタイミングも強弱も一様ではなかった。サイドへ散らしたボールが中央へクロスとなってくるときに、飛び込む迫力は満点だった。
 残念ながら、この希代のCFは、戦争のために国際舞台で自らの最盛期を輝かせる機会を失う。昭和13年に来日した世界一周のイングランドのアマチュアの強チーム(来日まで58勝16分け7敗の成績)と戦い4−0で勝った試合に出場しただけだった。このときは篠崎、播磨、二宮の慶大トリオの右と、加茂健、加茂正吾のベルリン組の早大ペアがFWの左サイドとして出場した。戦前に欧州から来た本格的チームとの唯一の勝利であった。
 大戦が終わったあとも二宮洋一は日本代表としてプレーし、慶應BRBの中心選手として1954年まで第一線で活躍する。その最後の試合が天皇杯決勝、延長4回、3時間の長丁場だった。これらについては別の機会に譲り、今回は大学スポーツが華やかだった時代に黄金チームとその中軸となったストライカーの若い日々の成長を見たことにとどめておくことにしよう。


(週刊サッカーマガジン 2005年11月15日号)

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