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第45回 デットマール・クラマー(1)日本サッカーの“いま”への道を開いた

巨匠ヘルベルガーの直弟子

 ことし夏、JFAの殿堂入りを果たした日本サッカーの父、デットマール・クラマーが11月11日に来日し、「日本におけるドイツ年記念」の日独サッカー交流展とシンポジウムに出席、日本サッカーについて、ドイツ・サッカーについて語ることになっている。
 彼の初来日は1960年10月29日のことだったから、この秋は45周年にあたる。この人との長いつき合いのなかで、会うたびに新鮮な刺激と大きな感銘を受けてきた私にとっても、80歳の彼がどんなスピーチをしてくれるのか――待ち遠しい気がする。
 東京オリンピックの日本代表のために、JFAが一大決心をして、外国人プロコーチを招くことを決め、西ドイツ協会(DFB)に頼んで推薦してもらったのが、35歳のクラマーだった。
 日本と同じ敗戦国で、各都市が戦争で廃墟と化したドイツだが、そのサッカーを立て直すのにDFBの主任コーチ、ヘルベルガーが「まず100人の優秀なコーチを育て、その100人がさらに100人のコーチを育てる」提案をした。戦後10年も経たぬ1954年のスイス・ワールドカップに西ドイツ代表が優勝したのも、こうした基礎づくりを優先した復興策とスイス大会でもヘルベルガー監督の知略あふれる戦術の勝利であった。
 クラマーは、そのヘルベルガーの直弟子の一人、1949年、24歳の若さで西部地区主任コーチに就任したのだから、指導者としての“天分”を師匠のヘルベルガーは見抜いていたのだろう。
 この地区の中心になるデュイスブルク・スポーツシューレにいたクラマーを60年3月に訪れたJFAの故野津譲(のづ・ゆずる)会長が、その人柄を見て、日本サッカーの未来を託すことにした。
 このころ、私は新聞社のスポーツ部長で、オリンピックを控えて、大阪から東京に転勤していた。おかげで60年秋の彼の50日間の滞日期間も、61年の再来日のときもその仕事ぶりや生活を、ごく近くで見続けることができた。


代表選手にまず基本技術

 まず基本技術のアップから――と代表チームに初歩的な、ボールを目標へ蹴って到達させる――という練習や、ヘディング、トラッピングなど、一つひとつのプレーを自分で模範を示して教え、それを反復練習させた。
 プレーヤーにも指導者にも根気のいる仕事を続けながら、クラマーは日本全国を回って各地のコーチを指導した。
 彼の非凡さは、退屈に見える基礎練習でも、その日、その日にメリハリをつけ、プレーヤーに一人ひとりの伸び具合を見て、練習量が一律でなかったこと、そして、代表チームにあって、このポジションプレーが必要となれば、特別練習を課し、自分もそれにつき合った。
 いわばプレーヤーの組合せを考え、チーム全体の目配りをすると同時に、その個々の選手に、いま、どの技術が一番必要かを見て、それを指導する。
 全体の指導も個人指導もできる監督だった。


監督、コーチに長沼、岡野のペアを

 その成果が表れるのには、確かに時間がかかったが、どうやら、徐々にそれが見え始めたころ、彼は1962年秋に、日本代表の監督に長沼健、コーチに岡野俊一郎という30歳そこそこのペアの就任を提案した。
 それまでの高橋英辰監督は、人柄もサッカーの知識も備わった優れた指導者であったが、クラマーは、若い長沼と岡野の2人の方がベターだと、竹腰重丸技術委員長や川本泰三副委員長に強く推したという。
 長沼、岡野の2人は「東京はロクさん(高橋監督)だと思っていたから、竹腰委員長から、代表の監督、コーチを――と言われたときには本当に驚いた」そうである。
 岡野コーチは、61年1月からクラマーの勧めで西ドイツへコーチの勉強のために出かけ、2ヶ月間、ヘルベルガーをはじめ、DFBのトップのコーチ陣の指導を受けていた。
 これがクラマーの伏線であったのかどうかはともかく、寝耳に水という感じの若い2人の代表チームの監督、コーチ陣を生み出したのもデットマール・クラマーの考えだった。
 若い監督、コーチによって東京からメキシコの両オリンピックの成功と、その後の協会での長い働きを見ると、クラマーの先見性には感嘆するほかはない。

 日独サッカー交流展は東京ドイツ文化センター主催、JFA、Jリーグ、朝日新聞社など後援。シンポジウムは12日、味の素スタジアム、13日、新宿パークタワーホール、15日、神戸・東急インで開催される。シンポジウム参加申込みは公式サイト(http://www.fcjapan.co.jp/germany)で。
 問合せ先、東京ドイツ文化センター 担当・加藤(03-3584-3201)


(週刊サッカーマガジン 2005年11月22日号)

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