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第46回 デットマール・クラマー(2)“鉄人”と呼ばれた気配りの達人

イングリッシュの特訓

 この号が発売されるころにはデットマール・クラマーの日本でのシンポジウム(12、13、14日)は終わっている。これらのスピーチのあと、彼は16日の日本タイアンゴラを観戦したのち、17日に帰国の予定になっている。
 今回の彼のスピーチは、東京ドイツ文化センター主催「日独サッカー交流会」の催しの一環ということもあって、もっぱらドイツ語だったが、普通、彼と私たちとの間では英語でのやりとりになる。
 1960年の初来日のときは「英語の勉強に不熱心だったので…」と言っていたのが、次の年には見違えるほど上手に英語を話すようになっていた。選手たちに説明するにはドイツ語で通訳するよりも、英語で直接の方がいい――とし来日するまでのわずかな期間に特訓したという。
 そのあと、FIFAのコーチとなって世界70余国を巡回指導し、FIFAコーチング・コースの主任となり…、といった年月を重ねて、いまや英語のスピーチもまた立て板に水。そのボキャブラリーの豊富なことは驚くばかりである。
 かつて松本育夫(元日本代表、現・サガン鳥栖監督)が、ドイツにコーチの勉強にゆき、ドイツ語もそこそこになったころ、クラマーを訪ねて、ドイツ語で挨拶すると、クラマーは英語で答えた。弟子・松本は「自分のドイツ語が通じなかったのか――」といささか悲観したという笑い話もある。
 後年、この話を師匠にしたところ「それはマツモトのドイツ語がまずいからではなく、私は(ドイツ人以外の人と)サッカーを英語で語るのが、習慣になっているからだよ」と。
 何事にも徹底する彼の姿勢の表れだが、同時に、彼の世界性をも示している。


秦皇島市の中国足球学校で

 先号のクラマーの写真に彼が75の背番号をつけたユニフォームを持っていたのをご覧になった方もいるだろう。2000年7月、私が中国河北省秦皇島市にある中国足球学校を訪れ、そこで中国全土から集まったコーチたちを指導しているクラマーに会った。写真はこのとき彼のルームで撮影したもの。手にした「75」のユニフォームは、1925年4月5日生まれの彼の75歳の誕生日を祝って、ドイツ・サッカー協会(DFB)がドイツ代表のユニフォーム(白シャツ、黒パンツ)に「75」をつけ、記念として送ってきたものである。シュレーダー首相のサイン入りのメッセージも届いていた。
 75歳といえば、普通なら隠居して当然、会社の会長さんや学者、医者で現役という元気な人もいるが、クラマーはこのとき、午前と午後にグラウンドでの練習、夜の講義といったスケジュールをこなしていた。秦皇島市は渤海(ポーハイ)湾に面した保養地だが、グラウンドはとても暑く、受講者の中にはぐったりする者もあった。彼の指導ぶりは徹底していて、講義の翌日には、前日のおさらいのために、教えた要点を再録し、受講者に配布していた。聞いて覚えていない人が悪いのだ――と私が言うと、彼は、受講者が習ったことを身に付けないのは先生が悪いのだよ――と言った。
 炎天下にグラウンドに立つ彼に地元の新聞は“鉄人”の見出しをつけた。ダンベルを持ち上げて鍛え続ける彼の身体の強さとともに、サッカーを教える努力に鉄人の真の姿を見た。


コパカバーナのホテルでの驚き

 68年メキシコ・オリンピックのすぐ後に、ブラジル・サッカー連合創立50周年記念のブラジル対世界選抜がリオのマラカナン・スタジアムで行なわれた。FIFAコーチのクラマーが世界選抜の監督となった。西ドイツからベッケンバウアーやオベラート、ハンガリーのアルベルトやスペインのアマンシオ、アルゼンチンのペルフーモたち、GKにはソ連のヤシンやウルグアイのマズルケビッチといった錚々たるメンバーが集まった。
 このとき、日本代表のコーチであった平木隆三が、彼の下で働いた。そのリオで平木コーチが見たのは、クラマーの気配りの丁寧さと巧さだった。
 世界中から集まってくるスタープレーヤーを、2日間で一つのチームにしてブラジル代表と試合をするために、クラマーはホテルの部屋の明るさや景観、2人1組の部屋割りなどを選手の出身国、言語、性格などから慎重に選ぶ。
 そしてプレーヤーが入室して気分がリラックスしたところで、まず目にするのは世界選抜のユニフォーム、そしてパンツ、ストッキング、靴下、トレーニング・スーツなどなど。監督自らその配列を決め、平木コーチに並べさせたという。
 長い飛行時間の後、リオに来て、いささか疲れているはずの選手たちが、ユニフォームを見ることで、世界選抜に選ばれた栄誉を感じ、試合への意欲をかりたててほしい――そのためには、部屋割りやユニフォームの並べ方はとても大切なのだ、とクラマーは平木コーチに説いた。
 短い期間だったが、平木コーチは、クラマーが選手に話しかけ、士気を高め試合での好プレーを引き出してゆくのを目の当たりにした。1−2で世界選抜はペレを含むブラジル代表に敗れたが、急造のチームとは見えぬ立派な戦いだった――と、FIFAのサー・スタンリー・ラウス会長も称賛した。
 クラマー44歳のときだった。


(週刊サッカーマガジン 2005年11月29日号)

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