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第48回 手島志郎(1)敏捷性を生かし日本スタイルの原型を築いた75年前の代表チームCF

昭和初期のセンターフォワード

 キリンチャレンジカップ2005、日本代表対アンゴラ代表で、66分から登場した松井大輔が、得意のドリブルで大柄なアンゴラ選手を悩ませた。それだけでなく、タイムアップ直前に、中村俊輔の右からの長いクロスと、それをファーで受け、うまいヘディングで柳沢敦が折り返したチャンスにゴール前の高位置に入り込んで、しっかり決勝ゴールを決めた。
 彼の速いテンポの動きと巧みなステップを見ながら、ふと、日本代表チームの初代CF(センターフォワード)あの75年前の第9回極東大会で活躍した手島志郎(てしま・しろう)さんを思い浮かべた。
 当時の選手の中でも格別に小柄だったこの人は、日本サッカーの黎明期――大正末期から昭和はじめにかけて――の旧制の高等学校大会(インターハイ)で広島高校のCFとして優勝の立役者となり、東大に進んで、関東大学リーグで6年連続優勝に貢献、“先達”竹腰重丸(たけのこし・しげまる)とともに東大のショートパス時代を築いた。そして、それを日本代表に移しかえて、中華民国代表の優れた体格と個人力に対抗するために、敏捷性を生かす日本スタイルを作り上げた一人だった。
 1907年(明治40年)2月26日生まれの手島志郎さん(1982年11月6日没)は私より17歳年長だから、この先輩の最盛期のプレーは残念ながら見ていない。そのプレーの特色であった“すり抜け”については、次のベルリン世代の先輩を通じて、あるいは、直接に戦後指導を受けた兄・太郎からも聞く機会があったし、記者となってからは何度かご本人の話を伺っている。
 そしてまた、この人の若い頃、サッカーにひたむきであったことと、本来のおおらかな性格が生んだ数々のエピソードは「元祖・サッカーの語り部」田辺五兵衛さん(1908〜1972年)から聞かせてもらった。


壮絶・旧制インターハイ

 当時日本領だった台湾生まれ、父は総督府の高官だった。広島に戻り高師付属中学(現・広大付属高校)でサッカーを始めた。
 広島のサッカーは広島高等師範で明治39年ごろから行なわれ、ここから各学校に広まるが、第一次世界大戦で当時ドイツ領であった中国の青島を日本が攻略し、捕虜となったドイツ人が広島の似島(にのしま)の収容所で暮らすようになり、その捕虜チームとの交歓試合が大正8年(1919年)頃から始まり、これがこの地域のレベルアップを促した。
 旧制中学校のカテゴリーでは広島一中、広島師範、そして付属中が強く、5年生の時には3校リーグで付属中が優勝、手島少年はCFとして注目されていた。
 付属中を卒業した一浪ののち、1925年に広島高校に進む。高等工業に進むよう言われていたのを、東大に行きたいために24年に開校したばかりの広島の2期生として入学したのだった。
 旧制の高等学校は、その頃の国立大学(旧帝国大学)に入るための、いわゆる予科的(教養学部的)な性格を持ち、3年制で一高から八高までのナンバースクールや、都市の名を冠した地方色豊かな学校を合わせて38校。それぞれに独自のカラーがあり、自由闊達な気風を生んでいた。
 私が昭和17年に入学した神戸商大(現・神戸大)予科も、高等学校的な大学予科という方針だったから、今も旧制高校時代を懐かしむ人の気持ちは推測できる。スポーツも盛んで、「3年間、何か一つに打ち込もう」という若者には、いささか蛮カラ(バンカラ)であっても、全力を尽くす練習と試合は高校生活の花であった。
 1923年に始まったサッカーのインターハイは、第4代JFA会長野津譲(のづ・ゆずる)さんが東大の学生時代に帝大サッカーを強くするために提唱したもので、のちにインターハイ全競技の中でも、壮絶さにおいて最も人気のある大会となった。


ヒゲぼうぼう、ザンバラ髪の強チーム

 広島高校は第2回から参加し、26年1月の東京大会で準優勝した。
 3学年がそろい手島キャプテンの下に実力ナンバーワンと見られた次の年は、大正天皇崩御のために大会は中止となった。最上級生で優勝のチャンスを逃したキャプテンは、卒業を延ばして28年(昭和3年)1月の大会で宿願を果たす。決勝の対松山高校のスコアは8−1、CF「テシ」(ニックネーム)の働きは抜群だった。チーム全員が散髪もせず、ヒゲぼうぼうのザンバラ髪だった。肩までの長髪の手島キャプテンがカップを受けるとき、その“蛮人的風貌”に秩父宮殿下が大笑いされたという話が残っている。
 東大へ進んだのは1929年4月、早速、秋の関東リーグに出場して優勝(東大4連覇)した。
 ノコさん(竹腰重丸)と神戸や東京の出身者によって洗練されたショートパスの東大の中に、“野人”手島志郎が加わる。インターハイで争った、かつてのライバルたちの中で、この小柄なCFが、独自の工夫で“すり抜け”プレーに磨きをかけた。
 次の年、最初の選抜・日本代表チームのセンターフォワードが誕生し、日本のストライカーの系譜の始祖が生まれることになる。


(週刊サッカーマガジン 2005年12月13日号)

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