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第49回 手島志郎(2)小兵を利して“すり抜けの名人”と言われた初代日本代表

新宿の雑踏のなかで

 昭和4年(1929年)に東大に進み、手島さんの長髪、ヒゲぼうぼう――いわゆる弊衣破帽(へいいはぼう)ぶりは収まったが、サッカーに打ち込む姿勢は変わることはない。
 上半身を肩から強くひねって、相手DFの間の狭い隙間を“すり抜ける”プレーはこの頃に磨きがかかった。
 その動作の工夫はグラウンドでも、人ごみを歩くときでも、時と場所を問わなかった。  こんなエピソードがある。
「新宿の雑踏を肩をひねりながら歩いていると、前方から羽織袴(はかま)に学生帽の巨漢がやってきた。道行く人は、その偉容に思わず避ける。すると、巨漢の前に並外れて小柄な手島さんが現れ、よけるまでもなく近づいてきた。皆が避けるのに向かって行くとは――。
 ぶつからんばかりに小男が近づいてきたとき巨漢は腕を伸ばしてつかもうとした。その途端、パッと一歩踏み込んだと思うと、手島さん、さっと右肩を落として、目にも止まらぬ早業で、伸ばした腕の下をかいくぐって逃げてしまった。
 巨漢は空をつかんで、その勢いで倒れてしまった。この巨漢はのちに柔道の某五段と知れた」

 中学生の頃、この新宿伝説を聞かされた私たちは雑踏を早く歩いてステップを磨くことに努めたものだ。


対中華民国戦2ゴール

 昭和5年の第9回極東大会は、日本サッカーにとっては重要なターニングポイントだった――、大正6年の第3回大会に初めて参加して以来、回を重ねてフィリピンには勝てるようになったが、中華民国には一度も勝っていない。
 今回は明治神宮競技場(現・国立)を会場とするホームでの戦いであり、将来のオリンピック参加のためにも日本サッカーの進歩をアピールしたいところだった。
 そのため、JFAはこれまでと違って、関東、関西の大学から優秀選手を選び、初の選抜チームを編成することとした。
 準備委員会は大学ナンバーワンの東大から12人、早大3人、関学2人、慶應、京大各1人を選んだ。キャプテンであり、指導者でも遭った竹腰重丸(たけのこし・しげまる)を中心とする、かつてない強力な日本代表を作り上げた。
 石神井で行なわれた第一期の合同練習の厳しさは、長く語り伝えられたほど。東大が主力ではあったが、その多くは地方の中学、高校出身であり、それが機敏性を生かす組織プレーという日本カラーにまとまったことは、次の世代へも大きな影響を持つことになる。
 日本代表は5月24日、まずフィリピンを7−2で破り、そのフィリピンを5−0で下した中華民国と5月27日に対戦した。
 日本はまず手島のシュートで先制した。左サイドからのパス攻撃だった。中華も個人技を生かして同点、後半に入ってシュートのリバウンドを手島が決めて再びリード、中華はロングシュートから大柄なCF載が2点目。パスをつなぐ日本とロングパスとドリブルの中華民国は譲らず、手島とのペアプレーで知られた篠島秀雄が3点目を挙げたが、またまた載のシュートで同点となり、3−3で終わった。
 今のようにPK戦はなく、また再試合も行なわれずに優勝は持ち越されたが、目標であった中華民国との引き分け、事実上、東アジアのトップに立ったことは、これまで出ると負けで、体協の中でも肩身の狭かったJFAにとって大きな励みとなった。
 残念なことに2年後、1932年のロサンゼルス・オリンピックではサッカーは行なわれなくなったため、このチームのオリンピックへの夢は消え、手島志郎は世界の舞台に立つ機会を失った。


大戦後の関西復興のスタート

 大学を卒業して農林省へ――面接のときに「何部を出たか」と聞かれて「農学部林業土木科」と答えるべきところを「蹴球部(サッカー部)です」と言ってしまい、試験官を驚かせた。本人にすれば、至極当たり前のこと、それだけ「蹴球漬け」の日々であったのだろう。
 この問答が縁となって入省したところ、“農林省は2人の一番を採用した。農学部の主席とビリを――”としばらく話題になったという。
 農林省は8年で辞めて、田辺製薬へ。田辺五兵衛(たなべ・ごへい)社長を助けて社業に尽くすとともに、サッカー部を育成し関西から日本一のチームを作る。
 今年のJ1で関西の2チームが最後まで首位を争った。かつての強い時代を知る者には嬉しいことだ。
 その関西強化のスタートは大戦後、1947年の東西対抗で若い西軍がベルリン組を含む技術の高い関東のベテランを相手に2−2の引き分けを演じてからである。
 西軍メンバー、私たちの世代を指導したのがコーチの手島志郎――。その理念と技術の確かさに、選手たちは、広島−東大の8年間をサッカーに打ち込んだ人の厚みを見た。


(週刊サッカーマガジン 2005年12月20日号)

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