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第53回 高橋英辰(1)70年代に“走る日立”を登場させ日本サッカーに世界を見せたロクさん
昨年11月、ヤマザキナビスコカップの決勝で、相手チームの足が止まり始める終盤に入っても、動きの衰えないジェフユナイテッド千葉に、あらためてオシム監督の“走るサッカー”の浸透を見た。
と同時に、35年前、アマチュアであった日本サッカーリーグに“走る日立”を登場させ、旋風を巻き起こした高橋英辰(たかはし・ひでとき、写真右)監督を思い出した。後輩からも先輩からも“ロクさん”の愛称で親しまれたこの人は、日立製作所という大企業にサッカーを植え付けた功労者でもある。その日立の末裔(まつえい)の柏レイソルは入れ替え戦に敗れてJ2に落ちた。
その一方で、早大と日立でロクさんの後輩であった西野朗監督はガンバ大阪をJ1で初優勝させ、関西に初のタイトルをもたらしたヒーローとなっている。
6年前の2月5日に彼岸に渡り、名を「寿巌院球琳英道居士」と改めてしまったロクさんは、こんな今のサッカー界をどのように見ているのだろうか。
私のフットボールメモリーズから、いくつかの話をよみがえらせることで、ひょっとすれば何かを囁いてくれるかもしれない。ちょっぴり皮肉っぽく、ちょっぴりトボけて…。
サッカーが校技の刈谷中
柏レイソルの前身、日立製作所サッカー部の創部は1940年(昭和15年)。その次の年にロクさん・高橋英辰は早大を卒業して日立に入社した。旧制・刈谷中学(現・刈谷高校)で5年間、早大で予科(高等学院)と学部をあわせて6年間をサッカー漬けで暮らしたロクさんが加わって一気にチームは強くなる。
もともと愛知県立刈谷中学は大正8年(1919年)に開校したとき、羽生隆校長が蹴球と陸上競技をこの学校のスポーツの基本とするとの方針を決めていた。愛知という野球の盛んなところで、あえてサッカーを選んだのは、英国のイートン校のような学校に――という校長の狙いがサッカーに結びついたとされている。
その校長のもとで、サッカーに熱心だったのが高橋英治先生。生徒たちと一緒にボールを蹴っていたこの先生は、やがて第4代校長に就任する。そこに、息子の英辰くんが入学してきた。「ロク」というニックネームは、英治校長の頭がすでに光っていたから、太陽(サン)の息子(サン)で「3+3=6(ロク)」というところからつけられたもの。
刈谷中学でのロクさんは上手な選手だった。ただし、愛知第一師範や岐阜師範という師範学校が強く、当時の学校制度によって、年齢が2歳年長の彼らに、中学校のチームが勝つのは大変なこと。全国中学校選手権大会(現・高校選手権)に進むのは難しかった。
刈高サッカー部70年史「赤ダスキの歩み」の中に、「1932年(昭和7年)の東海地区予選決勝で、愛知一師と延長の末2−3で敗れたとき、延長に入る前にPKがあり、これを5年生が蹴って外したのだが、4年生であるロクさんに蹴らせれば、勝って全国大会へ行けたかもしれない」――という記述がある。寄稿をした同期の鎌田(寺田)林平さんによると、練習熱心なロクさんは当時、人があまりやらないPKなども、一人で練習していたという。
ベルリン世代の洗礼を受けて
1934年(昭和9年)に早稲田高等学院(通称・早高)――つまり早大の予科に進む。
早大はこの前年の昭和8年から黄金期に入り、関東大学リーグでの連続優勝が始まっていた。
昭和11年(1936年)、あのベルリン・オリンピックの逆転劇を演じた日本代表の主力が、この頃の早大のメンバーで、2年上に加茂正五、3年上に加茂健、佐野理平、4年上に川本泰三、5年上に高島保男、立原元夫、堀江忠男らがいた。
ロクさんは、ここでベルリン組の洗礼を受けるが、同時にまた、彼らが卒業したあとのチームの中心となる責任を負う。強力な上級生の去った後は学生チームの常として経験不足のハンディが付きまとい、弱体化する。ロクさんの同世代ながら早くからレギュラーであった慶應の二宮洋一たちに、関東リーグでの、ひいては日本学生界の王座を明け渡すことになってしまった。
伝統という重荷を背負って苦労したロクさんにとって、企業チーム日立は一からのチーム作りで新鮮な仕事だった。茨城工場に本籍を置いた日立は、1941年(昭和16年)秋の明治神宮競技大会のサッカーで準優勝――。決勝の相手は当時日本の一部とされた朝鮮半島代表の日穀という強チームだった。
この同じ神宮大会の中等学校の部で、私は神戸一中(現・神戸高)の選手として優勝した。決勝の相手はやはり朝鮮地方代表の普成中学、2−2で延長もPKもなく、両校が1位の賞状をもらった。17歳の私が、当時はロクさんのことを知ることはなかったが、いま思えばこのときが不思議な縁の始まりだった。
(週刊サッカーマガジン 2006年1月24日号)