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第54回 高橋英辰(2)早大監督として“百姓一揆”で優勝。シンプルを追求したロクさん

野洲高校の驚きと楽しみ

 2006年正月、成人の日の高校選手権ファイナルで滋賀県の野洲高校が鹿児島実業を破って初優勝した。
 滋賀県といえば、多くの人が思い浮かべるプレーヤーは日本代表のセンターバックであった井原正巳(テレビ解説者−守山高校<86年卒>出身)だろう。
 彼より15年以上さかのぼると、甲賀(現・水口)高校の出身で、70年代のヤンマー黄金期に活躍した右ウイングの今村博治とDFの北村重夫の名を覚えておられる方もいるはずだ。もっと古くは、私が神戸一中の2年生であった昭和13年(1938年)の全国中等学校選手権大会ファイナリストに滋賀師範の名があるのだが…。
 それはともかく、井原も今村もそのころの選手としては上手なプレーヤーではあったが、今度の野洲高校の選手たちは、ドリブルが巧みで、そのことがボールを持って取られないという自信となって、さらに周囲との協調となり、パスでつなぐうまさも群れを抜いていた。
 事情通に聞くと近くのセゾンFCという少年のクラブの指導法が、野洲高校の山本圭司監督の「高校サッカーを変える」という狙いと一致して、このクラブから進学してくる者が多いらしい。もちろん、彼らのプレーに不満なところもあるけれど、これだけ楽しいサッカーを見せてもらったのはまことにありがたいことだ。
 関西では30年前に枚方フットボールクラブの近江達さんが、ドリブルをはじめとする個人技を伸ばす指導を提唱した。
 当時のサッカーマガジン誌上で取り上げられ、ドクター近江の主張は、各地の指導者に大きなインパクトを与えたことがある。昭和4年生まれ、喜寿のドクターは、指導の現場を離れ、専ら“老人サッカー”を楽しんでいるようだが、野洲高のサッカーを見て「やっと、こういうチームが高校に現れてくれた」と喜びながら「これは高校年齢だけのことではなく、もっと下の年代からの指導がいいからでしょう」とも言っていた。


八重樫、川淵、宮本を鍛えて

 さて、高橋英辰・ロクさんのメモリーズである。
 1916年(大正5年)生まれのロクさんの世代にとっては、あの1940年の「東京オリンピック」が戦争のために返上することになり、文字通り幻(まぼろし)に終わったことは残念なことだった。それだけに、大戦が終わり、中断したサッカーの国内大会が復活すると、ロクさんは日立という自分たちが中心になって作った企業チームと、出身校である早稲田のOBとしてWMWクラブの2つのチームで、チャンスがあれば試合をした(当時はそれが可能だった)。
 FWのどのポジションもこなしたが、当時でいうインナー、いまの攻撃的MFが適役。相手の攻めを防いで、チームが守から攻へ転じるときの“つなぎ”のパスのうまさは戦前派特有の年季の入った技術に、流れを読む力が加わった見事なものだった。目立つような大きな動きは見せなくても、いつの間にか、いいポジションにいて、さりげなくボールを配るプレーは心憎いばかりだった。
 そのロクさんが1955年(昭和30年)に早大ア式蹴球部の監督を引き受け、関東大学リーグ2連覇、2年目の大学王座決定戦では関西の大経大を破った。
 驚いたのはチームカラー。“百姓一揆”と称したゴール前へ殺到する迫力はロクさん自身のプレーに見る技術はスタイルと全く異なっていた。八重樫茂生、川淵三郎、宮本征勝といった体のしっかりしたプレーヤーが多かったこともあるだろうが、ひたむきにゴールを目指すシンプルなプレーと、日本サッカー全体を覆う体のひ弱さに対するロクさんのテーマがあったのだろう。
 ベルリン(1936年)から幻の東京に至る戦前の黄金期にみっちり練習を積んで技術を練ったロクさんが、戦中のブランクのために、基礎技術の身についていない戦後はプレーヤーを、どのように力をつけるかを考えた挙句のことだったろう。


初のアジアユースの監督

 早大で成果を挙げたロクさんは1957年からJFAのコーチ陣に入る。日本代表は、その前年、56年メルボルン・オリンピックの予選で韓国を倒して本大会に出場しながら1回戦で開催国オーストラリアに敗れていた。東京で開催される58年第3回アジア競技大会への強化の一つとして57年10〜11月には中国に遠征。竹腰重丸団長の下で、ロクさんは監督を務めた。7戦して2勝1分け4敗、社会主義・中国のスポーツへの傾注を知ることになる。
 58年5月のアジア競技大会でも不振だった日本にとって、その次の年に開催された第1回アジアユース大会は、若手育成の大きなチャンスとなった。U−20の大会だったが、JFAは年齢差の不利を承知で、高校選抜チームを送ることを決め、日本のスポーツ界の初体験ともいうべき高校チームの海外遠征の監督をロクさんに託したのだった。ときに49歳だった。
 このチームに私は、報道役員と同行することになり、ロクさんの若い選手への指導ぶりに接することになる。


(週刊サッカーマガジン 2006年1月31日号)

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