賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >第55回 高橋英辰(3)第1回アジアユースで銅メダル。暗いサッカーに灯をつけたロクさん

第55回 高橋英辰(3)第1回アジアユースで銅メダル。暗いサッカーに灯をつけたロクさん

U−20大会に高校選抜を

 1959年4月13日午前10時、石平俊徳団長、高橋英辰監督ら役員4人、選手16人の日本ユース代表は、羽田を飛び立ち、マレーシアの首都クアラルンプールへ向かった。
 4月18日から25日まで、ムルデカ・スタジアムで開催される第1回アジアユース大会に参加するためだった。ユースといっても、このころのアジアユースの年齢はU−19でなくU−20だった。日本は、高校生に励みを持たせることを重視して高校選抜チーム(同年3月卒業者を含む)を派遣することにしていた。年齢的にはU−20よりも1歳から2歳若い。
 この年齢差は、この年代では技術や体力の面でも大きいはずだが、そのハンディよりも、高校生で海外の大会に参加できるという若い世代へのアピールをJFA(日本サッカー協会)は重く見たのだった。
 もちろん、この選抜チームの中から将来の日本代表に上がっていくプレーヤーへの期待もあった。とはいっても、大学の手続きなどで18人のうち2人が遅れての出発という、学生特有の問題もないではなかった。
 手元にある当時のメンバー表を見ると、
GK片伯部(かたかべ)延弘、松岡浩
DF柴田和夫、秋葉和美、小里哲也
MF宮本輝紀、堀井国雄、新井隆、西岡実、大島治男、継谷昌三、田村文彦
FW津田信弘、山田通夫、和藤敏弘、桑田隆幸、杉山隆一、田村公一
 なかに東京、メキシコの両オリンピックに出場した宮本や杉山、日本サッカーリーグで活躍した片伯部、継谷、大島、桑田の名もある。
 チームは香港に2泊したのち、4月15日にクアラルンプールに乗り込んだ。まず、グループ分けを決める試合があり、日本は19日のシンガポール戦を4−0で勝ってAグループ(1〜4位)に入る。


Aグループで強豪と連戦

 この4−0の快勝は選手自身がびっくりするほど。右の桑田、左の杉山の突破が生きて、目を見張るようなクリーンシュートの連発で、日本の評価を一気に高めた。
 もともと、このチームの左サイドの攻撃には、田村公一という浦和西高のドリブラーがいるはずだった。ところが、チームへの合流が遅れる(4月22日)ことになり、そこで、監督である高橋ロクさんは、清水東高ではインサイドFWで、専らドリブルで点を取っていた杉山をウイングに置いたのだった。以来、杉山隆一は日本代表の左ウイングとなるのだが…。
 第1戦の勝利は日本チームの評価を高めたが、優勝を狙う開催国チームの警戒心は強まり、上位グループのリーグ日程は、
▽20日 マレーシア−香港
▽21日 韓国−日本
▽22日 マレーシア−日本
▽23日 韓国−香港
▽24日 日本−香港
▽25日 韓国−マレーシア
と、日本は強豪チーム相手の連戦を背負うことになった。
 21日の対韓国は、相手の速攻に早いうちに0−3とリードされてしまった。インサイドの突破力は素晴らしかったが、レフェリーが反則をとってくれなかったのが堪えた。
 日本も杉山のシュートと桑田のダイビングヘッドで2点を返した。日本の勝利を期待するスタンドは後半に望みをかけたが、疲れからか、得意とする早いテンポの攻めは少なく、韓国のキープ力と露骨な時間稼ぎのプレーに、イライラ続きに終わってしまった。
 対マレーシアは、はじめの15分間は互角。相手のインサイドの突破を、スイーパー役の秋葉がことごとく防いだ。日本ではまだスイーパーやリベロという言葉のなかったときだが、ロクさんは、センターバックの秋葉を後退させ、ストッパーの位置にはMFの新井を配置したのだった。
 しかし、このせっかくの策も、前夜からの雨で生じた水たまりにボールが止まり、それも相手の最もシュート力があるロバートに近いところだったことでご破算になった。このゴールを境に、チームの守りの組織はずたずたになって0−6で大敗した。
 最終戦は、何とか間に合った田村公一と杉山隆一の二人を並べた左サイドの威力もあって、香港を6−2で破って3位をキープした。
 チームはこのあとマラッカ、シンガポール、バンコクなどでも親善試合をして、海外での試合経験を積んだ。
 GK片伯部は足のひどい捻挫で杖をついていた。秋葉主将は発熱でシンガポールで入院した。そんなチームをまとめて、全員そろって5月6日に帰国した。彼らの銅メダルは暗いサッカー界の朗報だった。そして高校チームの海外遠征という日本スポーツ界の初体験の成功によって、毎年のアジアユース大会は東京オリンピックに向けての若年層強化の大きな柱の一つとなった。
 47年前の、この3週間あまりを振り返ると、あらためてロクさんの周到な準備と選手への心配り、突発事件への対応の巧さと早さを思うことになる。高校の校長であった石平団長は「サッカーの監督さんは、素晴らしい教育者だ」と言った。


(週刊サッカーマガジン 2006年2月7日号)

↑ このページの先頭に戻る