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極東大会で活躍した名プレーヤー。JFAを支え、導いた 篠島秀雄(上)

 日本サッカーがいまの“かたち”になるまでに、その時々に大きな力を及ぼし、後に影響を与えた人をつづるこの連載――前回は初代日本サッカー協会(JFA)会長の今村次吉さんでしたが、今回は少し後の時代のJFA副会長、篠島秀雄さん(しのじま・ひでお=1910〜75年)です。
 第9回極東大会の日本代表として、初の東アジア王座奪取の力となった名プレーヤーであり、また、三菱化成(現・三菱化学)の副社長、社長として企業のトップ、財界活動の多忙の中でJFAの常務理事、副会長として、サッカー興隆に力を注いだ――私たちにとってまことにありがたい先輩です。


高校生をフルコースに招待

 篠島さんに初めてお目にかかったのは、1959年(昭和34年)4月、東京のクラブ関東のレストランだった。
 第1回アジアユース大会(4月18〜25日)に参加する日本の高校選抜チームに、ナイフ、フォークの使い方を覚えさせようと、高橋英辰監督が篠島さんにお願いしたところ、クラブ関東にチーム全員が招待され、フルコースをご馳走になった。チームのマネジャー兼報道係であった私もお相伴した。前の年に三菱化成の専務に就任した篠島さんは、日経連の常任理事にもなっていた。49歳の若さで、三菱グループや財界でも逸材として注目されているとのことだった。私はノコさん(竹腰重丸=当時のJFA技術委員長)たちと楽しげに会話を交わすこの先輩を見ながら、昭和初期の東大の黄金時代の手島、篠島のペアプレーで鳴らしたその人、そして日本代表の第1期黄金時代の攻撃の核であった名選手を間近に見られたことがうれしかった。

 篠島さんは若い頃から秀才で通っていた。東京の城南小学校5年生のときに、担任の先生の勧めで、5年終了で東京開成中学を受験して入学している。1910年(明治43年)1月生まれだから、当時では早生まれということで学齢も1年早くなっている。
 東京開成中学の2年生のときに、東京府立(このころは東京府だった)高等学校が誕生して、その尋常科(旧制中学の部)の1、2年生の募集があったため、秀雄少年はこちらの方へ移ってしまう。
 大正年間にこうした新しい高等学校が生まれ、それぞれ独自の校風をつくった。その自由闊達な空気の中で、秀雄少年はサッカーに親しむようになる。
 野球の盛んだった城南小学校時代はクラスの投手だったというから、運動能力はあったのだろう。東高尋常科ははじめのうちはグラウンドが狭かったが、1923年(大正12年)の関東大震災で校舎が倒壊して、新しいところへ移転し、広いグラウンドに恵まれて、小さなゴムボールでの遊びから広い場所での本格的サッカーになったという。


若くても「オヤジ」と呼ばれ

 尋常科を終了して、高等科へ進んだのが1925年(大正14年)だから、すでに全国高等学校(旧制)選手権大会(インターハイ)は始まっていた。
 東高時代の3年間はまさにサッカーに打ち込む日々だった。といって、学業もしっかりやり、また音楽なども仲間と十分楽しんでいた。尋常科時代からニックネームは「オヤジ」だった。年齢的には一番若いはずなのに、何事も先頭に立つ実行力、いわゆるガキ大将的なところかららしいが、高校時代も変わらなかった。
 インターハイでは、残念ながら優勝とはいかなかった。先輩のいない新しい学校にはハンディがあった。ただし、それだけにリーダーの篠島さんにも、仲間にも、自分たちで蹴球部を創部し、自分たちでチームを作り上げるという点で、大きなプラスはあったはずだ。

 このころのエピソードに、1927年(昭和2年)の明治神宮大会兼日本選手権大会の関東予選準決勝で、東高が当時、最強といわれた東大を破ったことがある。
 相手の主将は、後の“神様”竹腰重丸。決勝ゴールは篠島さんのヘディングだった。ノコさんは、この不覚の1敗を後々まで覚えていた。
 もっとも、強敵を倒して進出した決勝の対早稲田WMW戦で、篠島さんは相手ゴールへ走りこんだとき、相手側が強蹴したボールが頭に当たって倒れ、意識を失ってしまった(試合にも敗れた)という。
 この東高のサッカー仲間に、後に住友金属の社長、会長となる日向方齊さん(ひゅうが・ほうさい、JFA副会長)、オーケストラの指揮者となった朝比奈隆さんがいた。また、サッカー部ではないが、東高の同期生には新日鐵社長となり、JFA5代会長を務めた平井富三郎さんがいた。
 かつて朝比奈さんに当時のことを尋ねたら「僕は背が高くて、FBをしていた。けがのため京大ではやらなくなったが、東高時代は熱心にやったものだ。篠島は上手だったね。日向はもっぱら応援団長役だったが……」と、晩年になってもまばゆいばかりの光を放った仲間たちと青春を共にした篠島さんは、1928年に東大に入り、ここでいよいよサッカー選手として輝きを見せる。
 東高でもセンターフォワード(CF)で得点能力のあった篠島さんは、東大でも1年目はCFだった。同時代に広島高校出身で、日本代表のCFとなった手島志郎さん(故人、2005年5月号掲載)が有名だが、この2人のペアプレーについても、次号で触れてみたい。


篠島秀雄(しのじま・ひでお)略歴

1910年(明治43年)1月21日、栃木県日光市に生まれる。
1916年(大正5年)東京・青山小学校に入学。4年生のときに城南小学校に転入、クラス対抗の野球では投手を務めた。
1921年(大正10年)同小学校5年修了で、東京開成中学校を受験し入学。
1922年(大正11年)新設の東京高等学校尋常科(旧制中学)2年生に転入。ゴムボールを蹴って遊ぶ。
1923年(大正12年)9月、関東大震災のために校舎が倒壊、移転して広いグラウンドで本格的にサッカーを始め、東高尋常科として関東大会などに出場。
1925年(大正14年)3月、東高尋常科を卒業。
            4月、東高高等科文科甲類に進学。
1926年(大正15年)1月、第4回全国高等学校(旧制)選手権大会(インターハイ)に出場、1回戦で明大予科に勝ち、準々決勝で早稲田高等学院(早高)に0−1で敗れた。
1927年(昭和2年)明治神宮大会兼日本選手権大会の関東予選で東高は1回戦で一高を破り、準決勝で当時、最強といわれた東大(竹腰重丸主将)を倒す大金星を挙げたが、予選決勝で早大に敗れた。
1928年(昭和3年)3月、東高を卒業。
            4月、東大法学部法律学科に入学。サッカー部ではFWとして、30年まで関東大学リーグで3年連続優勝、通算5連覇を果たす。
1930年(昭和5年)第9回極東大会に日本代表として出場。フィリピンに7−2で勝ち、中華民国と3−3で引き分け、中華民国と同率1位で東アジアのトップに立つ。
1931年(昭和6年)東大を卒業。三菱工業(現・三菱マテリアル)に入社。
1941年(昭和16年)3月、田辺五兵衛商店(現・田辺三菱製薬)の専務に。
            6月、兵役に。
1942年(昭和17年)6月、召集解除。
1945年(昭和20年)3月、田辺製薬を退社。
            11月、三菱化成工業(現・三菱化学)に入社。
1952年(昭和27年)日本サッカー協会(JFA)常務理事に就任。
1955年(昭和30年)4月、同社取締役黒崎工場長に。
1958年(昭和33年)3月、同社専務取締役。
1959年(昭和34年)4月、日本経営者団体連盟(現・日本経済団体連合会)常任理事に就任。
1960年(昭和35年)経済同友会幹事に就任。
1961年(昭和36年)JFA理事長に就任(65年まで)。東京オリンピックの成功に働く。
            9月、三菱化成取締役副社長に。
1964年(昭和39年)7月、同社取締役社長に就任。
1965年(昭和40年)JFA副会長に就任(75年まで)。
1968年(昭和43年)4月、東京12チャンネル(現・テレビ東京)のサッカー番組『三菱ダイヤモンド・サッカー』の放映が始まる。スポンサーは三菱グループ。
1974年(昭和49年)5月、日経連副会長。
            7月、同社取締役会長。
1975年(昭和50年)2月11日、急性心不全のため没。従三位勲一等瑞玉章。


★SOCCER COLUMN

『三菱ダイヤモンド・サッカー』の生みの親
 篠島秀雄さんが三菱化成の副社長に就任したのが、1961年(昭和36年)9月。三菱グループの中では若い幹部として注目されていた。日本サッカー協会(JFA)ではすでに長く常任理事を務め、61年からは理事長に就任した。64年の東京オリンピックを控えたJFA野津譲会長にとっても、頼りになる人だった。
 三菱という大きな企業グループがサッカーに結びつくようになったのは、いくつかの伏線があるが、篠島さんの力を見逃すわけにはいかない。68年4月に東京12チャンネル(現・テレビ東京)がサッカー番組をつくって話題になったが、これは篠島さんがロンドンでBBC放送のサッカー番組を知り、日本でもやってみようと考えたもの。三菱グループがスポンサーでバックアップするところから、社章にちなんで『ダイヤモンド・サッカー』と名付けた。
 この放送の解説には岡野俊一郎(現・JFA名誉会長)があたり、金子勝彦アナウンサーとのやり取りは、ずいぶん人気になった。この岡野俊一郎を解説に起用したのも実は篠島案――。
 テレビに着目するだけでなく、解説の適任者を選ぶ目も持っていた。さすが篠島さんと、後からひざを打つことになる。


(月刊グラン2008年4月号 No.169)

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