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華族で貴族院議員。ベルリン五輪へ代表を送り成果を挙げた、第2代JFA会長 深尾隆太郎

アジアから世界へ

 日本サッカーの長い歴史の中で、そのときどきに大きな力を及ぼし、後にも影響を与えた人を紹介する連載『このくに と サッカー』の今月号は、日本サッカー協会(JFA)の第2代会長・深尾隆太郎(ふかお・りゅうたろう)さんです。

 初代の今村次吉(いまむら・じきち)会長(月刊グラン2008年3月号掲載)の下で、日本サッカーはフィリピンに勝ち、中華民国と引き分けて、東アジアのトップに立つという急速な進歩を遂げたが、深尾会長の下ではベルリン・オリンピックに初参加し、優勝候補のスウェーデンに逆転勝ちして世界を驚かせた。いわば、アジアから世界へと活躍の場を広げたのだが、第2次世界大戦のため、1940年(昭和15年)の東京オリンピック開催返上というスポーツにとっての苦難の時期も経験したのだった。

 今村さんは東大を卒業し、財務官となり、日露実業の常務も務めた。早くから日本陸連や体育協会の役員となり、乞われてJFAの会長となった。明治から大正にかけてサッカーは東京高等師範(現・筑波大)を中心に、師範学校への浸透が早かったため、高師系の人たちがJFAの中心になっていた。しかし、極東大会の出場など国際舞台とのかかわりが深くなって、協会役員の顔ぶれも東大をはじめとする各大会出身者が増えた。自らも優れたランナーであり、学生時代から競技会や競技組織の運営にかかわってきた今村会長は、歴史の流れの中での人事改革についても野津謙、新田純興(以上、東大出身)鈴木重義(早大出身)といった若い力を伸ばして成功した。


野村正二郎との縁で

 今村次吉会長が1933年(昭和8年)に任期満了で名誉会長になった後、しばらく会長は空席となる。すでにJFAは体協の中でも重要なポジションになっていた。
 30年の第9回極東大会で、中華民国と並んで1位になったことで、オリンピック参加への機運も高まっていた。競技の性格から国際的な視野が広く、財界、政界にも顔が利く人が必要だった。
 男爵で貴族院議員で汽船会社の社長である深尾隆太郎さんが浮かんできた。
 深尾家は土佐藩の筆頭家老の家柄で、明治維新のときに領主、山内容堂が幕府側だったのに、深尾家は朝廷側となり、その功で叙せられていた。1877年(明治10年)生まれの深尾さんは東京高等商業(現・一橋大)を卒業して、大阪商船(現・商船三井)に勤めて副社長となった後、父の死後、男爵を継ぎ、貴族院議員となっていた。
 深尾さんの長男・重光、次男・重正の2人がともに第五高等学校(現・熊本大)のサッカー選手だったから、深尾家の中では蹴球(当時はそう呼んでいた)は早くから話題になっていたはずだが、深尾さんが会長の椅子に座ることになったのはもう一つ、同じ華族仲間であった野村正二郎さんの要請があったのが大きかったとされている。

 野村正二郎は、元の名を杉村正二郎といい、2歳下の弟、正三郎とともに早大ア式蹴球部の選手だった。
 27年に第8回極東大会で早大WMWに補強メンバーを加えた日本代表が中華民国に敗れたが、フィリピンには2−1で勝って、国際舞台での日本代表初勝利を記録した。杉村兄弟はこの時の遠征メンバーだった。
 杉村家は大阪で江戸時代から続く両替商で、兄弟の父、正太郎の代で倉庫業を営むようになっていた。正二郎が野村と改姓したのは、野村男爵家へ養子にいったため。野村家は土佐藩士で明治維新のときの功労で、深尾家と同じように男爵を授けられていた。
 29年に早大を卒業した正二郎は、3歳年長の先輩、鈴木重義を助けてJFAの役員となり、33年から理事、審判統制委員を務めていた。年齢に大きな開きはあっても、同じ華族仲間に加えて、土佐藩というつながりもあり、また、子息たちが五高時代に打ち込んだ蹴球に心が動いて、深尾隆太郎さんは35年4月1日にJFA第2代会長に就任する。


ベルリンでの成功

 当初の大仕事は1936年(昭和11年)のベルリン・オリンピックへの参加であり、そのための募金活動であった。幸い体協からの交付金2万8580円と別に、1万1359円の寄付が集まり、ベルリンへ選手を送ることができた。当時の機関誌はその寄付金の詳細を掲載しているが、まさにサッカー人が一丸となって選手を派遣しようという気が、その記録に表れている。
 深尾会長の就任の言葉を読むと、サッカーの知識もなかなかのようで、組織力アップと同時に、個人力アップを強調していた。一流会社の経営にもかかわっていたから不思議ではないが、滅私奉公的な気風が高まり始めていた中、会長の見識がよく表れていた。
 ベルリン・オリンピックの逆転劇の成功は、選手たちの努力や相手側の油断をはじめ、さまざまな条件が重なったのだろうが、日本サッカーが総力を挙げての結果といえる。代表チームの監督、鈴木重義はJFAの主事、後の理事長、あるいは専務理事といった役柄だが、大会期間中、野村正二郎が代行したのもその表れといえた。鈴木監督、竹腰重丸、工藤孝一両コーチという組み合わせが必要とみての措置だった。
 ベルリンの後、日本代表には38年のフランス・ワールドカップ参加という望みもあったが、戦争を控えた“非常事態”で見送ることになった。
 ただし、38年のワールドカップ期間中、“東京オリンピック”のアピール(まだ返上決定はしていなかった)のためにスタッフを送り、併せてワールドカップの視察をした。野村正二郎理事はJFAの機関誌に、生でワールドカップを見た日本人最初のリポートを掲載している。そうした遠くへ向けた目も、やがて東京オリンピックの開催返上という辛い現実に突き当たってしまう。
 国全体が大戦争へ傾倒してゆく中で、深尾会長、野村理事長の男爵ペアはアジア近隣諸国との交流などにも目を向けたが、やがて太平洋戦争の始まりと、戦局の劣勢によって、スポーツは動きを止めることになる。
 大戦終結とともに深尾会長もまた席を去ることになったが、ベルリンでの大一番の成功と、それに続く、しばらくの日本サッカーの光彩は当時のサッカー人にとって、忘れることのできない幸福な期間だった。


深尾隆太郎(ふかお・りゅうたろう)略歴

1877年(明治10年)1月19日生まれ。
1899年(明治32年)6月、東京高等商業(現・一橋大)卒業。
            8月、大阪商船(現・商船三井)に入社。
1912年(明治45年)3月、朝鮮郵船取締役に。
1917年(大正6年)12月、海外興業取締役に。
1920年(大正9年)1月、大阪商船専務取締役に。
1923年(大正12年)11月、大阪商船副社長に。
1925年(大正14年)2月、襲爵(男爵)。
1928年(昭和3年)6月、貴族院議員に。
1929年(昭和4年)1月、大阪商船副社長を辞任。
            11月、日清汽船社長に。
1930年(昭和5年)4月、正五位に叙せられる。
1934年(昭和9年)4月、勲四等旭日小綬章。
1935年(昭和10年)4月1日、大日本蹴球協会(JFA)第2代会長に(45年8月まで)。貴族院議員として、議員制度調査会委員に。
1936年(昭和11年)11月、南洋拓殖社長に。
1937年(昭和12年)南洋アルミニウム鉱業会長に。
1939年(昭和14年)南洋アルミニウム鉱業を辞任。
1941年(昭和16年)南洋拓殖社長を辞任。
1945年(昭和20年)8月、JFA会長を退任。
1948年(昭和23年)4月17日、没。


★SOCCER COLUMN

野村正二郎、杉村正三郎兄弟
『早稲田大学ア式蹴球部75年史』の巻末にある卒業年別会員名簿を見ると、1926年(大正15年)卒業に鈴木重義、29年(昭和4年)に野村正二郎、31年に杉村正三郎の名がある。
 杉村正三郎さんは、卒業後、阪急電鉄に勤めていて、極東大会の日本代表として知られていた。27年の上海大会に参加し、30年の東京での第9回極東大会でも代表、ポジションはFB、スリムでプレーの形もレフェリーの姿も美しい人だった。先輩たちは杉村さんのことを「こぼん」あるいは「こぼんさん」と呼んでいた。関西でいう「ぼんぼん(=坊っちゃん)」、それも末っ子だから「こぼん」というわけ。

 杉村家は江戸時代から続く大阪の商家で、父親の正太郎の代に倉庫業を始めた。3人の子息を正一郎、正二郎、正三郎と名づけ、二男の正二郎さんが野村男爵家へ養子にいったということだった。野村家は幕末、維新のころ、坂本龍馬の海援隊に加わった土佐藩士、野村維章が戊辰戦争の官軍方で戦功を挙げ、男爵を授けられている。
 ついでながら、深尾家も土佐藩の筆頭家老で佐川領主。佐川町役場の話では、ここは1862年(文久2年)に坂本龍馬が脱藩したときのルートであったとのこと。
 深尾と野村――会長と理事長のつながりは、坂本龍馬からの縁ということらしい。


(月刊グラン2008年6月号 No.171)

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