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ミシェル・プラティニ(2)1970年代後半、フランス代表の中心選手に

 FKの名手として若い頃から有名だったミシェル・プラティニが、自らの“力”を伸ばすために「ハーフウェーラインからのシュートの練習をした」話を前号で紹介した。そのことを彼が私に語ったのを“お茶の時間”と断り書きしたのには理由がある。
 トヨタカップ(現・クラブワールドカップ)のためにユベントスとともに来日(1985年12月)したときに彼と会ったのだが、「インタビューというのではなく、お茶を飲みながらサッカーの話をするというだけなら。テープレコーダーもカメラも、メモも一切なしなら――」という条件付きだった。大スターでありながら、自分だけがインタビューされるという特別扱いを好まない、というのが理由だった。

 彼の仲間への気配りを尊重しての“非インタビュー”の短い“おしゃべり”の中で、このハーフウェーラインからのロングシュートが特に印象に残ったのは、その頃、私は「世界の優れたプレーヤーの個性となる技術の基礎は、いつ頃から身に付くのか」ということに興味を持っていた(今もそうだが…)からでもある。彼は16歳の頃のこうした練習によって、ロングパス、ロングシュート(FK)の基礎ができたのだろう。別の例ではヨハン・クライフ(オランダ)にワールドカップで見た彼の見事なロングパスについて、そのキックの形はいつ頃からかと聞いたときにも、“ああいうロングパスは16歳の頃には蹴っていた”と彼は答えたものだ(日本人に比べると、長蹴力の付く年齢は少し若いようだ)。

 ついでながら、このプラティニとの“会話の時間”を設定してくれたのはサッカージャーナリストの大住良之さん。当時、彼はトヨタカップのプログラムなどにも関わっていた。プログラムにサッカー好きの明石家さんまさんを登場させたいというので、私のスポーツ紙の文化部を通じて吉本興業に頼むと、人気絶頂のさんまさんが二つ返事で時間を都合してくれた。お礼にプラティニのサイン入りのユニフォームを渡したら、とても喜んでいたという。

 日本では関心の薄かったフランスサッカーに私が興味を持つようになったのは75年頃、リーグチャンピオン、サンテチエンヌの欧州での活躍による。この鉱山町のクラブは、75年のチャンピオンズカップ(現・チャンピオンズリーグ)準決勝でバイエルン・ミュンヘンに惜敗(0−0、0−2。当時はノックアウト方式で準決勝は2試合)し、さらに次の76年にも決勝で再びバイエルンに敗れた(0−1)が、その攻撃的な試合ぶりが人気を呼び、彼らのユニフォーム“緑”(ヴェール)はフランスファッションの流行色にもなったほどだった。
 代表チームも、78年ワールドカップ欧州予選第5組(76年10月〜77年11月)の三つ巴の激しい争いの末に、このグループで4戦2勝1分け1敗(得点7、失点5)で2位ブルガリア(1勝2分け1敗)を勝点1差(当時は勝利が勝点2)で抑えてアルゼンチンでの本大会へ進むのだが、予選終盤の模様を伝える一般紙を見て、芸術やファッションの国のサッカー熱をあらためて知ったものだ。

 プラティニは、その78年大会の予選でフランス代表の中心選手として働いた。すでに76年のモントリオール・オリンピックにも出場し、彼と彼の世代は徐々に代表の中の勢力になり始めていた。
 DFのマキシム・ボッシやパトリック・バチストン、タフなMFドミニク・バテナイ、“ウナギ”と呼ばれたドリブラーのドミニク・ロシュトー、小柄で俊足のディディエ・シクス、それにベルナール・ラコンブといった53〜57年生まれの若者たちがフランスの期待を一身に集めていたのだった。
 レイモン・コパとジュスト・フォンテーヌのいたあの58年のワールドカップ3位の黄金期から20年近くのちに台頭し始めたフランスサッカーの新しい香りを知りたいと、77年のゴールデンウイークに、わずか1試合だったが、フランスリーグをのぞきに行ったのも私には貴重な経験だった。

 大きな関心を持って眺めた78年ワールドカップのフランス代表は、残念ながら1次リーグ1勝2敗で退いてしまう。なにしろ、開催国アルゼンチン(優勝)新生イタリア(4位)そしてハンガリーと同じ組に入ったのだから、ここから抜け出すにはまだ経験不足といえた。
 しかし、初戦のイタリア戦(1−2)では開始直後に、左サイドのシクスの突破からラコンブがゴールを決めて世界中を驚かせ、第2戦のアルゼンチン戦(1−2)ではPKによるリードで勢いに乗るホストチームに追いつき、リバープレート・スタジアムを埋めたサポーターたちを不安にさせ、フランスの伝統復活を告げたのだった。
 この試合でプラティニは、ラコンブのシュートのリバウンドを決めた。有名なFKやパスだけでなく、第2列からゴール前のチャンスを“嗅ぎつける”、ストライカーとしての才能も備えていることも証明したのだった。


(週刊サッカーマガジン 2007年5月22日号)

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