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ミシェル・プラティニ(3)魅力的なチームのドラマティックな敗戦

 1982年ワールドカップは、FIFA(国際サッカー連盟)がそれまでの16ヶ国参加を拡大した最初の大会で、24チームが14都市17競技場で戦った。ミシェル・プラティニ率いるフランス代表は、欧州第2組の予選で5勝3敗(勝点10、得点20、失点10)ベルギーに次いで2位となって出場権を得た。3位アイルランド(4勝2分け2敗)とは同じ勝点(当時は勝利が勝点2)で、得失点差による順位決定だった。
 この4年前、アルゼンチン大会で1次リーグ敗退という厳しい結果を背負ったミシェル・イダルゴ監督だったが、“攻めてこそサッカーは面白い”との考え方は変わらなかったし、調子の波が大きいと批評されるプラティニへの信頼も揺らぐことはなかった。この大会のフランスチームにはそのプラティニのほかに、年長のアラン・ジレスが加わっていた。20歳という若さのマニュエル・アモロスもMF陣に入っていた。

 この82年スペイン大会は、24チームを6組に分け、各組リーグの上位2チームが第2ラウンドへ。ここで3チームずつの4組に分かれ、各組リーグの首位が準決勝、決勝へ進む形となっていた。その1次リーグ第4組で、フランスはイングランドに次いで2位(1勝1分け1敗)となって第2ラウンドのD組に進み、ここでオーストリアと北アイルランドに連勝して準決勝に進んだ。
 調子が上向きとなったこの第2ラウンドでは、このステージで最も楽と言われたDグループに入ったせいもあり、プラティニが欠場した対オーストリアは1−0だったが、第2戦の北アイルランド戦は4−0の快勝だった。1次リーグで開催国スペインやバルカンの雄・ユーゴスラビア(当時)を押さえた北アイルランドからの4点奪取は、プラティニやベルナール・ジャンジニやジレス、ドミニク・ロシュトー、そしてジャン・ティガナらの調子が揃ったときのフランスの力を示した。
 本命視されていたジーコ、ソクラテスのブラジルと、78年の前回大会チャンピオンチームにディエゴ・マラドーナをプラスしたアルゼンチンがともにCグループでイタリアに敗れ、ベスト4はそのイタリアとポーランド、フランス、西ドイツ(当時)となった。

 7月8日、セビリアでのフランス対西ドイツの準決勝は、大会史上初の延長PK戦となり、そのドラマティックなシーソーゲーム、フランスのテクニックと西ドイツのスタミナ、そして両者の闘志は、長く語り継がれることになる。サンチェス・ピスファン・スタジアムを埋めた6万人も、テレビの前の全世界も、あらためてサッカーのスリルにしびれたものだが、私はそのスタジアムではなくマドリードのアディダスのプレスルームで、多くのフランス人記者、ドイツ人記者とともにテレビ観戦し、彼らの一喜一憂を目にしながら経過をメモるという奇妙な体験をした。

 パトリック・バティストンに対する西ドイツGKハラルト・シュマッハーの体当たり(レッドカードが出なかったのが不思議…)という激しい場面もあって、試合の経過はまことに面白いが、ここでは簡略にしておこう。ピエール・リトバルスキー(現・アビスパ福岡監督)の先制ゴールをプラティニのPKで追いつき、1−1のまま延長に入ると、マリユス・トレゾールとジレスが決めてフランスが3−1にしてしまう。しかし、延長になって投入されたカールハインツ・ルムメニゲが1点差にし、さらにクラウス・フィッシャーのオーバーヘッドシュートという大技も出て3−3となったのだった。
 攻撃志向のフランスだから致し方ないと言えばそうだが、2点のリードを守れなかったのはまことに惜し。いそれだけ、疲労もあったのだろうが…。

 その疲労の後に待っていたPK戦は、まさに非情そのものだった。
 フランスが先に蹴り、まずジレスが決め、西ドイツはマンフレート・カルツが1−1とする。アモロスが成功し、やはりDFのシューター、パウル・ブライトナーが応じる。フランスが3人目のロシュトーが決めた後、西ドイツはここでリベロのウリ・シュティーリケが失敗した。泣き崩れる彼をリトバルスキーとシュマッハーが慰める姿がテレビでクローズアップされ、そのシュマッハーがディディエ・シスのシュートを阻んだ。リトバルスキーで3−3に戻し、プラティニとルムメニゲが成功して4−4。サドンデスとなって、マキシム・ボッシュのシュートが止められ、西ドイツはホルスト・ルベッシュが決め、決勝進出を決めた。

 このときの私のメモに、こうある。
「すごい緊張の中、双方の5人目のプラティニとルムメニゲだけは、サイドネットへしっかり決めている。さすが、と言うべきか」
 ブラジルに次いでフランスも去って、大会から魅力あるチームが消えた――とは、このときのペンの言葉である。魅力はあってもタイトルを取れない――そんな世評の中で、プラティニはイタリアのセリエAでプレーする道を選び、これが彼の大きなステップアップとなる。


(週刊サッカーマガジン 2007年5月29日号)

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