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ミシェル・プラティニ(4)真価を発揮、優勝と得点王を手にしたEURO84

 ベテランのスポーツ記者、奈良原(鈴木)武士(ならはら・たけし)さん(69)が5月12日に亡くなった。
 早大文学部を出て1961年に共同通信に入り、運動部記者として62年以来、サッカーを担当。東京、メキシコ両オリンピックをステップに日本サッカーの発展期に立ち会ったジャーナリストだった。取材の的確さと、上質の書き物で知られ、サッカーマガジン誌上でもよい記事を残し、また76年にフランツ・ベッケンバウアー自伝『わたしにライバルはいない』を、77年にはペレ自伝『サッカー わが人生』(ともに講談社刊)の訳書を出版して注目された。
 ようやく普及の進み始めた当時のサッカー界で単行本と言えば、手引書や技術、戦術所のいわゆる“ハウツーもの”がほとんどだった中で、世界的スターの自伝という“人もの”を手掛けたのは、まことにとう(火へんに同)眼と言えた。
 2冊とも、単に原著の翻訳だけでなく、それぞれに関係あるワールドカップの記録や選手の紹介などを付記する懇切な編集で、今も古いファンの愛読書となっている。
 サッカーが良い時代になり始めている今、まだまだ仕事をしてほしい仲間がまた一人、去ってしまった。ご冥福を――。

 さて、ミシェル・プラティニ。
 82年ワールドカップの準決勝で退いたフランス代表とプラティニを、私が次に見たのは84年欧州選手権(EURO84)フランス大会だった。
 6月12日から27日まで、パリ、ランス、リヨン、マルセイユ、ナント、サンテチエンヌ、ストラスブールの7都市で8チームが戦った大会は、この形となってから2回目、80年イタリア大会が、準備不足と八百長問題が加わっていささか盛り上がりを欠いたのに比べると、運営もスムーズで、観客数も多く、そしてまた、注目し続けたプラティニと彼の世代のフランス代表の最盛期を目の当たりにした大会として長く心に残ることになった。
 ユベントスに移ったプラティニは、82−83シーズンでセリエAの得点王(16点)となり、コッパイタリアでは優勝、83−84シーズンにはリーグ優勝と得点王(20点)欧州カップウィナーズカップも手にしていた。

 8チームを2組に分け、そのグループリーグの上位2チームが準決勝、決勝へと勝ち上がるこの大会で、フランス代表はまず第1グループでデンマークを1−0、ベルギーを5−0、ユーゴスラビア(当時)を3−2と下して3戦全勝。そして準決勝ではポルトガルに3−2で勝ち、決勝ではスペインを2−0で下して優勝。フランスの総得点14のうち、プラティニは1次リーグでハットトリック2回を含む7得点、準決勝の延長タイムアップ直前の勝ち越しゴール、決勝の先制フリーキック(FK)――の合計9得点(5試合)を挙げて大会得点王となり、セイコーのファステストゴール賞も受けた。
 サッカーマガジンが発行した『別冊ヨーロッパ84』に、私の総まとめが掲載されていて、その初めのところに、1次リーグのユーゴスラビア戦(3試合目)直前にプレスルームでBBC(英国放送)のラジオ担当、マーティン・フックス記者のインタビューに対しての受け答えがある。その中で「フランス代表は、82年のスペイン・ワールドカップで優れたテクニックと流動的な攻めを見せているが、今度はその上に点を取る意志が強くなるている。特にプラティニにそれが見られるのが素晴らしい」と語っている。

 78年の初戦のイングランド戦で、FKが大きくバーを越えたのに失望した私は、今度は2本のFKのゴールを見る。ユーゴスラビア戦で6人の壁を前に、助走なく踏み込みに入って左ポストぎりぎりに決め、決勝の1点目は壁の外側を巻いて低く飛び、右ポスト内側へ巻いて落ちるボールを蹴った。スペインのGKルイス・アルコナーダは、いったん手中にしながらファンブルして彼自身の評判を下げたが、プラティニのゴールへの強い意志が働いていたと言える。
 プラティニの面白さは、自らが好調のFKのときも、互いの位置関係によって自分が蹴らずに左利きのジャン・フランソワ・ドメルグに蹴らせたことだ。このようにして相手GKの意表を突いたこともあり、このあたりの意外性がまさにフランス流、プラティニ流でもあった。
 この大会での発見の一つ、は彼のヘディングの強さと巧みさだった。ベルギー戦の5点目、ユーゴスラビア戦の2点目を、それぞれ右から送られてくるボールをニアで、飛び込むようにしたヘッドで決めている。
 ニアへ走り込んでのヘディングのタイミングの取り方とそのときの早さは、そのまま、彼が攻撃を組み立て、フィニッシュ地点へ現れるストライカーの能力の一つを示していた。


(週刊サッカーマガジン 2007年6月5日号)

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