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マリオ・ケンペス(1)黒髪をなびかせて疾走、ファンをしびれさせた78年大会の象徴

 アビスパ福岡の催しで、デットマール・クラマーの講演会が5月に福岡で行なわれたとき、彼に会うために博多へ出掛け。たその滞在中に、戦友の後藤明(ごとう・あきら)の宅を訪ねた。私と同じ82歳の彼は箱崎の旧家の主(あるじ)で、すでに実家は長男に譲り、2人の息女はキャリア女性としてそれぞれの道で名が通っている。夫人もお元気で、会うたびに互いの無事を喜び合い、戦後60余年を超えて若い頃に戻るのだが、このたび初めてグラフィックデザイナーの次女・啓子さんがサッカー好きと知って、話がはずんだものだ。
 福岡と言えば、今も野球が人気。フットボール系ではかつてはラグビーどころで、戦前のビッグゲームの一つに、関東、関西、九州の三地区対抗があったほど。父親・明氏も、ご多分に漏れずラグビー派だったが…。
 その啓子さんがサッカーにとりつかれるようになったきっかけが1978年ワールドカップで、あのアルゼンチンのマリオ・ケンペスのテレビ映像だったという。

 そう言えば、78年大会からNHKがテレビの実況放送(7試合だったが)をスタートし、多くの人がワールドの魅力を知った。中でも、マリオ・ケンペスの爆発的な突進とシュート、そして、そのたびにスタジアムに舞う紙吹雪の画面に強い印象を受けた。
 メキシコ・オリンピック(68年)の銅メダルから10年が経ち、日本代表の成績が伸びずに停滞感の出始めた頃、わが戦友の息女をはじめ、多くの新しいファン層を開拓してくれたマリオ・アルベルト・ケンペス――78年ワールドカップ得点王で最優秀選手――に、この連載の3人目に登場してもらうことにした。

 78年6月1日から25日まで南米アルゼンチンで開催された第11回ワールドカップは、前回チャンピオン・西ドイツ(当時)と、開催国アルゼンチン、そして各地予選を突破した14チームの合計16チームが参加。首都ブエノスアイレスをはじめマルデルプラタ、コルドバ、ロサリオ、メンドーサの計5都市・6会場で、まず4チームずつの4グループによる各グループ内リーグ戦を行ない、上位各2チームの計8チームを再びA、B2組(4チームずつ)に分け、各組内のリーグ戦の後、1位同士の決勝、2位同士の3位決定戦を行なった。
 開催国アルゼンチンは1次リーグは第1組に入り、首都ブエノスアイレスのリバープレートでハンガリー、フランス、イタリアと戦い、2勝1敗で2次リーグ(B組)に進出。ここでポーランド(第2組1位)ブラジル(第3組2位)ペルー(第4組1位)を相手に2勝1分け、得失点差でブラジルを抑えて決勝へ。
 決勝の相手はA組で2勝1分けのオランダ。リバープレートでのファイナルは1−1から延長となり、3−1でアルゼンチンが勝った。ケンペスは1次リーグでの得点はなかったが、2次リーグのポーランド戦(2−0)で2得点、ペルー戦(6−0)では先制ゴールと3点目を決め、決勝でも2得点、合計6得点を奪った。

 アルフレッド・ディステファノ(レアル・マドリード)をはじめ数多くの名選手を輩出し、ブラジルとともにサッカーのタレントの宝庫として知られていたアルゼンチンだが、ワールドカップのタイトルにはそれまでは縁がなかった。
 ヨーロッパの有名クラブへ送り込んでいる優秀な“海外組”との合同トレーニングの困難がついて回っているのだが、激情的ラテン気質からくるラフプレーが多いのも問題だった。74年の西ドイツ大会では組織プレーの未熟から2次リーグで敗退、ヨハン・クライフ率いるオランダのトータル・フットボールに0−4で惨敗している。
 自国での開催を迎えるに当たってAFA(アルゼンチン・サッカー協会)は、30代のセサル・ルイス・メノッティを監督にして、4年前の準備を任せたが、メノッティはまずラフプレーでなくクリーンなサッカーの大切さを説き、海外組よりも国内の選手を主にチーム編成をした。

 マリオ・ケンペスは、メノッティが大会前に呼び寄せた数少ない海外組の一人。少年時代から左足の強いシュートで注目され、ロサリオ・セントラルクラブのエースとなり、74年のワールドカップ出場の後、76年からスペインのバレンシアで働いてリーグ得点王に輝き、“マタドール”(闘牛士)と呼ばれていた。
 メノッティには、23歳で上り坂にある突破力やシュート力とともに、冷静さを備え、ファウルの少ないケンペスは、チーム合体のためにも必要だった。実力を持ちながら謙虚で控えめな彼は、国内組優先のチームにも溶け込めると考えたのだろう。
 ただし、彼の起用法については、メノッティは大会が始まっても迷っていた節がある。
 バレンシアでは、スピアヘッド(先端)――いわばセンターフォワードとして、または左サイドのストライカー、そしてMFとして、3つのポジションをこなしている彼が、自分の代表ではどこが適しているのか? そのことにメノッティは頭を悩ませていたようだ。


(週刊サッカーマガジン 2007年7月3日号)

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