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マリオ・ケンペス(2)アルゼンチンの田舎町からバレンシアへ、そしてリーグ得点王に

 マリオ・アルベルト・ケンペスは1954年7月15日生まれで、78年ワールドカップ決勝の日は24歳の誕生日の20日前だった。
 首都ブエノスアイレスの西北600Kmにあるコルドバ州のベルビジェという小さな町で育った彼は、アルゼンチンの多くの男の子と同じように、小さい頃から缶を蹴り、ボールと遊んだ。
 10歳の時に町のクラブ『タジェレス』に入り、この地域のユースリーグに出場。チームでは常にセンターフォワード(CF)で、「いつも点を取ることを期待されていた」とい。72年にはインスティテュート・コルドバへ。73年、ここでの13試合で11得点を挙げて19歳の実力を見せつけた。
 そのゴールを奪う力にロサリオ・セントラルクラブが目をつけ、74年2月5日に彼と契約、強豪エスツディアンテス・デ・ラプラタとのデビュー戦でハットトリックを演じた。

 少年時代から力強いキックで知られた左足シュート、早い動きの中での正確なトラッピングや高速のドリブルなどの進化に加え、チームプレーについての理解力が進んで、若い才能はアルゼンチンのトップリーグきってのストライカーへの道を歩んだ。
 卓越した技術と、スピードと、冷静さで、74年は34試合で29ゴール、次の年は50試合で35得点と、ゴール量産は続いた。
 もちろんアルゼンチン代表にも招集。73年9月9日のボリビア戦でデビューし、74年のワールドカップ・西ドイツ(当時)大会にも出場した。1次リーグ4組2位(1勝1分け1敗)で勝ち上がり、2次リーグA組でオランダ(0−4)ブラジル(1−2)に敗れ、東ドイツ(当時)と1−1で分け、上位へは進めなかった。

 私がケンペスを初めて見たのはこの大会の1次リーグ、ポーランド戦(2−3)だった。ルベン・ウーゴ・アジャラやカルロス・アルベルト・バビントンたちの巧みなテクニックに感嘆したことと、若いケンペスがゴール前へ“ヅカヅカ”という感じで踏み込んでいくのが印象に残っている。
 このとき周囲の欧州の記者たちが、アルゼンチンの選手たちのことをよく知っているのに驚いた。欧州で働いているプレーヤーは当然のことだろうが、20歳と最年少のケンペスについても、代表チームのウォームアップ試合でゴールしたのが記憶にあると言っていた。
 すでに欧州でも知られるようになったケンペスがアルゼンチンのトップリーグでストライカーとして成功している――となれば…。76年、彼がロサリオの3シーズン目、1試合1得点平均のペースでゴールを重ねているとき、スペインのバレンシアからオファーが来た。

 78年のワールドカップ開催を控えたアルゼンチン・サッカー協会(AFA)は74年大会の後、セサル・ルイス・メノッティを代表監督に指名、強化を任せた。メノッティはまず2年間、多くの選手を集めて選考し、76年夏から国内選手の候補を選ぶとともに、これら候補に指名されたプレーヤーの海外への移籍を禁じることにしていた。
 バレンシアからのオファーは、ロサリオにとってはもちろん魅力があった。
 バレンシア側ははじめ、西ドイツのライナー・ボンホフ(74年大会優勝メンバー)も狙っていたが、78年大会まではダメとなって、ケンペスに狙いを絞った。アルゼンチンを離れることを好んではいなかったケンペスだが、76年7月末にアルゼンチンからスペインに飛び、8月7日に移籍契約が結ばれた。
 メノッティ監督側から見れば、裏切られたことになる。サポーターの間でも、この移籍はしばらくは話題となった。

 ケンペスの、バレンシアでのスタートはさっぱりだった。冬のアルゼンチンから真夏のバレンシアへ。その気候の変化だけでなく、全く新しい仲間とのプレーである。うまくいかなくて当然だが、バレンシアのサポーターたちは容赦なかった。
 当時の60万ドル(当時のレートで約1億3200万円)という破格の移籍料を払った値打ちがあるのか、とまで言われた。だがそうした不評はリーグ3試合目からの活躍で吹き飛ばし、このシーズン24ゴールでリーグ得点王となった。
 両親と弟の家族とともに暮らすことになったこともあるが、彼の人柄がチームメイトの信頼を得たことも大きかった。そして、次のシーズンも28ゴールで得点王に。
 メノッティにとっても、かつてのいきさつはどうであれ、国内組主体の代表チームにスペインでの実績を持つケンペスは必要な人材だった。しかも、彼の他に招集した2人が、家族の不幸や自らの故障で不参加となっていた。2年前に密かに脱出したアルゼンチンへ戻ったケンペスは大歓迎を受けた。
 そして彼は、スペインでの経験がムダではなかったことをワールドカップで見せつけることになる。


(週刊サッカーマガジン 2007年7月10日号)

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