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旧制の全国高等学校大会は青春の気迫を現す場だった

日本サッカー50年『一刀両断』第4回
聞き手 賀川浩(大阪サンケイスポーツ)


 正月の全国高校選手権大会を近ごろではインターハイと呼ぶ人もある。しかし、古いサッカー人がある種の感慨をもって呼ぶ“インターハイ”は旧制の全国高等学校大会のことである。大正12年(1923年)にはじまり、昭和23年(1948年)まで続いたこの大会は、高等学校(旧制)という独特の気風を持つ若者が、青春の気迫を全身で表現する場であった。東京帝大(現・東大)京都帝大(現・京大)が共催し、隔年に東大、京大のグラウンドを使って行なわれたサッカー大会は、各種インターハイのなかでの花形種目でもあった。


京都岡崎公園での大会の思い出

川本 “インターハイ”を語るには、ボクよりも、もっと適当な人がいると思う。当時の高等学校のマンバーに聞けば、ずいぶん色んな話が出るだろうが……。それでも、ボクも昭和6年に早稲田に入って、早稲田高等学院の一人として、昭和7年と昭和8年と二度、インターハイに出たんだョ。

――たしか、この大会は大正12年に始まっていますね。わたしが生まれる前年でずいぶん古い話ですが……。ここで、若い人たちのために、ちょっと戦前の学校の制度を説明しておくと、まず小学校が6年間、これは今も同じで、この上が中学校、これが5年制でいまと違って義務教育ではない(義務教育は小学校まで)。そして、3年制の高等学校がその上にあって、高等学校を経てから帝国大学、つまり東大や京大などの国立大学へ進む。ほかに早稲田や慶応、あるいは関西大学などは、それぞれが大学予科(現在の教養課程)を持っていました。川本さんは、早稲田高等学院、つまり早稲田の予科のメンバーとして、このインターハイに参加されたんですね。

川本 うん、早稲田は、どういうものか、この大会に第1回から出ている。

――記録を見ると第1、2回には高等学院……わたしたちは早高(そうこう)と呼んでいました……が優勝していますね。第1回は参加8校、第2回は9校、第3回は13校と増え、昭和5年の第7回ごろは20校を超えています。竹腰重丸さん(元・日本協会理事長)が活躍されたのは大正14年ごろ……。

川本 そうだろうナ。いい選手が出たし、レベルも高くなっていた。東大が大正15年から昭和6年まで関東大学リーグで6連勝をしたのも、この大会で育った選手が東大へ集まったからだヨ。

――川本さんより少し前の、日本代表のCF手島志郎さんは広島高校、手島さんとのペアで有名だった篠島秀雄さん(故人)は東京高校でした。そうした名選手が生まれ、白熱したゲームの多かった大会の歴史のなかでも昭和8年の早高の敗退はひとつの“語り草”でしたね。

川本 昭和7年は東大御殿下でやったが、これには早高は簡単に負けた。問題は次の昭和8年。こんどは京都の番で、会場は岡崎公園だった。

――早大のレギュラーをずらりとそろえて乗り込んだわけですね。

川本 バックに立原、高島、堀江、FWに平松、長谷川、大越、それにボクなど、当時関東大学リーグのレギュラーが7人ぐらいいた。バックスの3人はのちにベルリン(昭和11年)へいったメンバーだった。大会は昭和8年の正月だからその前年の秋の関東大学リーグは、東大から覇権を慶応が奪った年で、東大時代から、早慶時代へ移るときだった。ボクは1年からレギュラーだったし、ほかの連中も、試合の経験豊富で、まず負けるなんて考えていなかった。1回戦は覚えていないが、2回戦は成城高校だった。
柳田というCHがいたなあ。まあ、難なく勝った。次が準決勝の六高。だいぶ強いとは聞いていたが……みんなハラのなかで、そこそこやるチームだぐらいに考えていたんだろう。
 岡崎公園へゆくと、グラウンドの周囲をぐるりと応援団がとりかこんでいる。すでに負けたチームも、その応援団と一緒にいた。

――早高対全高等学校という感じですネ。

川本 長髪で、紋付きを着て、ホウ歯のゲタをはいたゴツイ応援団の連中が、太鼓をたたきノボリを持ってガーガー怒鳴る。タッチラインへボールが出ると、取りに行く早高に連中は怒鳴りつける、という調子だった。

――それで……。

川本 アッという間に試合は済んでしまった。4−0だヨ。自分でも、どんなプレーをしたのかほとんど覚えていない。六高のFBに、いまの神戸FCの加藤正信氏がいた。もう一人が築島(つきしま)だったか、その築島が、ビートルズみたいな長髪で、イヤーッと奇声をあげて飛んでくる。ボヤーッとそれを見ていたら、いきなりガチンとくる。こっちのボールを取ってタッチラインへ蹴り出すと「どおーじゃ」と胸をはる。そこで応援団が喜んで、ドドーンと太鼓を鳴らす、なんて調子だったよ。


名手揃いのバック崩壊の不思議

――加藤正信さんにそのときの話を聞いたら、六高の勝因は、グラウンドがドロドロで早高の技術が発揮できなかったことと、審判がファウルをとらなかったことだ、と言っておられましたが……しかし、早高のディフェンスが4点も取られるとはね……。

川本 うん、グラウンドが悪かったことは確かで、ボールが止まってしまってね、そこへバーンと相手はつっこんでくる。インターハイの壮烈さは、それはすごいもので、その大会で、広島と北大予科の試合を見たが、キックオフして、いきなり両方がぶつかりあったら、北大予科の2人がバタバタと足を折って倒れたからね。
 それにしても立原や堀江、高島などのバックスは、“重馬場”に強いし、ぶつかり合いでも負けるハズがない。それが4点も取られたなんて、今もって不思議だヨ。GKの村形(元・国際審判)がキーパーチャージでやられたのかナ、ともかくアッという間に終わっての完敗だった。

――六高の方も、もちろんバンカラだけでなく、攻撃陣には直木、永津などという技術のあるプレーヤーもいた。このあと六高は松山高等学校を2−1で破って優勝しています。

川本 そう、いいとこにパスなんかも回していたヨ。そうそう、こんなことも覚えている。正月の京都だから、キレイな桃割れに結った娘さんの着物姿もグラウンドの周囲にちょいちょい見えた。それが全部、六高側を応援するんだヨ。これにはいささか参ったね。おまけに、試合前に、グラウンドへ入っていくときに、紋付き、長髪の連中から“ヨオーッ、蹴球俳優”てな言葉を浴びせられてりしてナ。

――蹴球俳優(しゅうきゅうはいゆう)……ふーん、サッカー・スターというわけですね。川本さんは、すでに東西対抗にも出ていたし、みな早大のレギュラーで名は知られていたんでしょう。

川本 早稲田はもともとバンカラな気風の学校だったが、地方の高等学校から見たら、なんか、シャラーとして見えたんだろう。

――わたしは昭和17年に神戸商大(現・神戸大)の予科へ入ったのですが、国立大学の予科だからインターハイに参加しようと予科あげて運動したことがあります。それに神戸一中のOBがこの大会では活躍したので、いろんな思い出がありましたが、川本時代の早高でもインターハイに勝てなかったと、ずいぶん聞かされたものです。

川本 昭和8年の次の年だったか、神宮競技場でスマートな東大生に挨拶された。ヒゲの剃り跡の青い人だった。それが六高の長髪、ヒゲモジャの築島だと聞いてびっくりしたものだ。

――旧制高校というのは、中学を出てから大学までの間、つまり(浪人しなければ)満17〜18歳から20〜21歳くらいまでの伸び盛りの年齢層。そのときに、ともかく、しゃにむに(あるいは悩みながらも)サッカーに打ち込むのがインターハイの選手たちでした。中学校の名選手も未経験者も、この時期に、あるひとつの「モノ」をつかもうと懸命だったと思います。もちろん、バンカラの雰囲気、気迫強調のサッカーには大きな目で見れば、功も罪もあったでしょうが、この年ごろをインターハイで過ごした、今の中年以上の人たちには忘れることのできないものでしょう。

川本 3年ばかり前にインターハイのOBの集まりができたらしいネ。とにかくユニークな大会だった。今の全国高校大会が昔の中学校大会以来、日本協会とは別に発展してきたように、旧インターハイも日本協会とは直接関係なしに発展したことも、またおもしろいところだ。


(『イレブン』1976年4月号)

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