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日本のビール王、戦後のサッカー再興の力に。第3代JFA会長 高橋龍太郎

72歳で会長に

 高橋龍太郎(たかはし・りゅうたろう)さんが第3代大日本蹴球協会(現・日本サッカー協会=JFA)会長に就任したのは、1947年(昭和22年)。大戦終結の2年後だった。深尾隆太郎(ふかお・りゅうたろう)前会長は終戦の年に退任し、会長空席期間もあったが、関東や関西ではサッカーの復活は早く、46年の4月には全日本選手権大会(現・天皇杯)の復活第1回の予選が関東と関西で行なわれ、その勝者が東京で優勝を争った。
 こうした運営は関東協会(理事長・乗富丈夫、故人)と関西協会(会長・田辺五兵衛、故人)の協議で進められ、乗富さんと田辺さんとの合議で高橋さんを第3代会長に迎えることになった。
 略歴で見る限り、高橋さんは1875年(明治8年)生まれで、第2代会長の深尾さんとほぼ同年代。ビール醸造の第一人者であり、大日本麦酒株式会社(現・アサヒビール、サッポロビール)の社長で、東京商工会議所の会頭などを務める財界の大物中の大物。72歳でのJFA会長就任だった。


6年間のドイツ留学

 深尾さんが土佐藩の筆頭家老の家系であったのに対して、高橋さんは同じ四国でも愛媛県喜多郡内子村(現・内子町)で酒造業を営む旧家の生まれ。高橋家は宇和島藩の財政を支えて郷土としても遇されていた。
 松山の旧制中学(当時は尋常中学といっていた)――今の松山東高校を卒業して、東京高等商業学校(現・一橋大学)に進んだが、病のため(脚気だったとか)休学し、結局、京都の三高(現・京都大学)で学ぶことになる。ここを卒業して大阪麦酒(後の大日本麦酒)に入り、ミュンヘンに留学して本場でビール醸造を学ぶ。
 この1898年(明治31年)からの6年間の留学期間中にフスバル(ドイツ語のサッカー)に接したかどうかは分からないが、ミュンヘンではTSV1860がすでに創設されていた。日本でも有名なバイエルン・ミュンヘンは高橋さんの滞在中の設立(1900年)――。いわばドイツサッカーの黎明期だった。
 帰国して新しく生まれた大日本麦酒株式会社の吹田工場長となり、国産ビール醸造に励むことになる。以来、この会社の発展に尽くして1937年(昭和12年)に62歳で社長に就任。
 高橋さんの父・吉衡(よしひら)さんは教養豊かな人格者で、内子村近辺の少年教育などにも力を注いで“内子聖人”と尊敬されたという。その父の下で育った高橋さんも、趣味が広くて将棋では坂田三吉の後援者でもあり、自身の腕もなかなか――書道にも造詣が深かった。スポーツも好きで戦前のプロ野球チーム、イーグルス、戦後は高橋ユニオンズのオーナーでもあった。


戦死した息子のために

 後に第3次吉田内閣の通商産業(現・経済産業省)大臣を務めることになるこの人がJFA会長を引き受けたのは、戦死した三男の彦也氏のためでもあった。
 彦也さん(通称・ヒコさん)は1935年(昭和10年)に旧制松山高等学校(現・愛媛大学)へ入学してからサッカーに打ち込み、全国高等学校大会(旧制インターハイ)で活躍、京大でも関西学生リーグでキック力と鋭いタックルのFBとして注目され、3年の時は主将を務めた。
 ヒコさんは練習熱心だけでなく仲間の面倒見もよく、後輩たちからも慕われていた。大戦中、海軍士官となって海防艦勤務となり、戦争が終わった後も魚雷除去作業に参加し、サイパン島で掃海作業中に乗艦が機雷に触れて爆発して戦死した。  この戦後の機雷除去といった人の嫌がるはずの危険な作業にも進んで参加したところがヒコさんらしい――と痛ましいニュースを聞いた仲間が一様に思ったという。
 その子息を鍛え、立派な人間に育ててくれたサッカーのために――というのが父・龍太郎のJFA会長就任の動機だという。
 高橋会長の下、大戦後の苦難時代にサッカーは急速に復興に向かった。
 会長就任の最初の仕事は4月の天覧、東西対抗だった。昭和天皇が皇太子殿下とともに明治神宮競技場(当時は米軍管理下でナイルキニック・スタジアムといった)においでになり、観戦し、試合後、選手たちを激励された。
 このことがのちに天皇杯下賜となって、今の“天皇杯”に結び付く。
 51年の第1回アジア競技大会参加にはじまる国際舞台の復帰から、54年の初のワールドカップ予選、日韓戦の開催まで、食料も乏しく、用具の入手も不自由であった頃から、スウェーデンや西ドイツ(当時)など欧州のチームを招き、日本の学生チームを欧州へ派遣するなど次の時代への布石を少しずつ打ったのが、高橋会長の7年間だった。


高橋龍太郎・略歴

1875年(明治8年)7月15日、愛媛県喜多郡内子村(現・内子町)で高橋吉衡の長男として生まれる。
1893年(明治26年)愛媛県尋常中学校(現・松山東高校)卒業。東京高等商業学校(現・一橋大)に進んだが、病のため休学。
1894年(明治27年)第三高等学校(現・京都大学)に入学。
1898年(明治31年)同校機械工学科卒業。
            7月、大阪麦酒に入社。
            11月、ドイツ留学、ビール醸造を学ぶ。
1904年(明治37年)3月、ドイツから帰国し、発足した大日本麦酒吹田工場長に就任。
1917年(大正6年)同大阪支店長。
1924年(大正13年)同常務取締役。
1933年(昭和8年)同専務取締役。
1937年(昭和12年)同社長。
1946年(昭和21年)1月、貴族院勅撰議員に。
            12月、東京商工会議所会頭。
1947年(昭和22年)1月、日本商工会議所会頭。
            4月、大日本蹴球協会会長。参議院議員全国区当選(6年、緑風会)。
1949年(昭和24年)大日本麦酒社長を辞任。
1951年(昭和26年)7月、第3次吉田内閣、通商産業(現・経済産業省)大臣に就任。
1952年(昭和27年)10月、同大臣を離任。
1954年(昭和29年)大日本蹴球協会会長を辞任。
1957年(昭和32年)ドイツ連邦共和国より勲功章を受ける。
1964年(昭和39年)勲二等旭日重光章を受章。
1967年(昭和42年)12月22日、永眠(92歳)。


★SOCCER COLUMN

時々還れ父母の夢時に
 JFA第2代深尾隆太郎会長の長男・重光、次男・重正の2人がともに第五高等学校(現・熊本大学)=前号参照=、また第3代高橋会長の三男・彦也が松山高等学校でそれぞれが、全国高等学校大会(旧制インターハイ)を目指してサッカーに打ち込んだこと、その子息たちによって父親がサッカーに目を向け、会長に就任するきっかけになったことは、不思議な縁――といえる。当時の旧制高校では「何かに打ち込む」という気風が強く、それぞれの子息のサッカーへの傾倒ぶりは、この人たちから比較的近い年代であった私にはよく理解できる。
 ヒコさんのように留年してインターハイの出場資格がなくても、後輩の練習に付き合い、面倒を見る――そんな子息を見て、なぜそこまでと思う父親が、やがてこの競技に心と体を注ぎつつ成長する姿に共感を覚えたに違いない。高橋会長はヒコさんを愛し、ヒコさんの仲間を試合の時に自宅へ呼んで激励したことも再三だったし、“戦死”の後もチームの仲間を招いてヒコさんのことを聞くのに熱心だった。
 実家は現在、内子町の“文化交流ヴィラ 高橋邸”として残されていて、遠来の客を迎えるゲストハウス、あるいは研修会、お茶、お花などの文化活動施設として利用されている。
 多くの人に開かれた高橋イズムを継承するこの邸の管理スタッフの大野千代美さんに、龍太郎さんとヒコさんの関連についての資料を尋ねた。所蔵の資料は多くはないが、次の一句がありましたと伝えてくれた。
 龍太郎さん83歳の作。
 「靖国の森に鎮まる霊なれど
   時々還れ(かえれ)父母の夢路に」


(月刊グラン2008年7月号 No.172)

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