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HBのポジションと有馬、宮田の存在

日本サッカー50年『一刀両断』第8回
聞き手 賀川浩(大阪サンケイスポーツ)


――二宮寛監督のもとに、マンチェスター・シティとのシリーズを終わり、日本代表チームの再建がスタートしたというところですネ。

川本 新聞などでみると、二宮寛監督は、とりあえず守備を見直したいということで、守って、守って、4試合をやったようだが、それは、考えとしては悪くないと思う。ただ問題は、それからの考え方。それからどうするかだ。

――守るだけのチームでいいわけはないでしょうからネ。

川本 守備から何人を攻撃の分担にさけるかということだ。このために普通考えるのは、6人で守るのを、なんとか5人で済ませるようにする、つまり守りの面での個人のレベルアップが問題になってくる。一人一人の守備範囲が狭くなっていて、昔なら3人で守ったのを5人で守っているというのが今のやり方だが、その1人の守備範囲を広げれば、単純なプラスマイナスの計算ができてくる。

――味方ボールのときにも、いつも、後方にたくさんの人をおいておかなくては危い、ということも守備の個人能力のアップで解決してゆかなければなりませんね。

川本 押し上げやリベロなどというやり方もあるが、もちろん、こうした配置や動きも、ボール技術やスタミナなどの把握なしに観念的ではいけない、ということだ。

――単独チームを長く指導してきた二宮寛監督は、選手の力に感じてゲームの展開などには自信はあるようですが、ともかく、代表選手の個人能力を、まだまだアップさせなければならないのですから、大変です。

川本 選手の実力の把握と、どうしたらレベルアップするか、守備範囲の拡大、それにはマンツーマンとゾーンの絡みも出てくる……。いずれにしても、攻めるサッカーをしなければ沈滞してしまうからネ。それに、いずれ釜本がおらんようになれば、大物なしになってしまう。このへんもこれからの大きな課題になるだろう。

――久しぶりに代表チームに入った古河電工の奥寺をみても、左足のシュートの、タマそのものの威力はすごいんです。しかし、コントロールは、まだだな、という感じ。今度はテレビだけだったのですが、まだ、自分のキックの角度で、これなら、ここへピタリというのが、決まっていないようでした。協会の平木理事(技術・指導担当)にきいたら、本人も、そのことには気づいているようなんですが……まず個人能力のアップでしょうネ。

川本 そうだヨ。とにかく、当分は個人のレベルアップに全てを傾注せないかん。これはコーチ、監督でなくて、プレーヤー自体が試行錯誤を繰り返して自分で上手になっていくことなんだ。試行錯誤をぎょうさん(たくさん)繰り返した選手ほど、ものになってくる。


韓国のサッカーの神様・金容植氏

――さて、前号に続いて、今度は、50年の流れのなかから、HB(ハーフバック)の話を聞かせてください。

川本 近頃は、リンクマンというたり、ミッドフィルダーという言葉もある。

――今はポジションの呼び方ではミッドフィルダーをHBとも言っていますが、昔はちょっと違いましたネ。

川本 うん、FW(フォワード)のインナーと、このHBでミッドフィルダーの役をしていたから、今のHBという感じと、昔のHBとは、ちょっと印象が違うだろう。

――ベルリン・オリンピック以後、3FBの形が、各チームでとられるようになり、インナーとHBがミッドフィルダーをやっていましたが、そのなかでもHBは守備的役割が多く、インナーは攻撃的役割が重かった、というのが常識的な見方ですネ。

川本 そういう役柄から、戦前、戦中を通じて、HBにはあまりボクの印象に残ったプレーヤーはいなかったネ。

――よく動くこと、頑張ることなどの点が強調されるポジションでしたから……前に話の出た「韓国のサッカーの神様・金容植」さんは、やはりすぐれたHBだったんですネ。

川本 ドリブルがうまかったからネ。もっとも、守りの方は、あんまりやらなかった。ただ、今のようなサッカーのミッドフィルダーという役割をやらせてみたい選手は一人いたネ。

――それは

川本 松永信夫。戦前派とうか戦中派というか、戦後しばらく日本代表のセンターハーフをやっていた。彼は3FBのセンターハーフとしては可もなく不可もなく、というところだが、足は速いし、小回りはきくし、動きの幅も大きい。何より速かった。今のリンクマン的なHBをやらせたかった選手だよ。

――藤枝で有名な松永3兄弟の2番目ですね。1番上の兄さんはベルリン・オリンピックの右ウィング、この松永信夫さんも長兄と同じ志太中学から教育大学でしたネ。

川本 うん、ベルリンへいった兄貴より優れていたネ。彼は合宿中に、ときどくパッと消える。ハテなと思っていたが、あとで聞いたら居酒屋へ一杯飲みに行きよったらしい。そんな酒好きだった。WM時代だからCHをやらせ、CHとしてはちょっとプレーが軽すぎる感があって、むしろミッドフィールドで走り回らせたかった選手だョ。

――昭和27年の天皇杯の準決勝で、わたしたちが大阪クラブで松永さんの志太クラブと試合して、松永さんに1点とられたことがありました。あのときはFWをしていましたが、確かに早いプレーヤーでしたネ。

川本 当時今のミッドフィルダー的な役割がなかったからなあ……。そういう意味では、ベルリンの右近徳太郎もミッドフィルダーとして有能だったな。

――右近さんはもともと、動きの幅の広い人だったし、どのポジションにも現れましたから……

川本 ベルリンのときは右のインナーだったが、スウェーデン戦では、日本ゴール前での守りに加わって、日本ボールになって、左から攻め、相手ゴール前で左からボールが回ってくると、もう、そのときには右近はボクの後ろへ来ていたなあ。
 まあ、戦前、戦中は、今のミッドフィルダーとはちょっと違う感じのHBだったから、リンクマン、あるいはミッドフィルダーという感覚で、昔のHBを見るわけにはいかない。
 そういうHBの印象のなかでは、有馬洪と宮田孝治の2人だネ。

――2人とも戦争直後の日本代表。ニューデリーの第1回アジア大会(昭和26年)、マニラの第2回アジア大会(29年)などにも参加しました。年齢は有馬さんの方が5、6歳上、宮田さんは、今52か53ですネ。

川本 まあ、あの2人の頑強さは出色だった。


対敵競技に必要な宮田の粘っこさ

――守りという点では、ちょっと今も見当たりませんネ。

川本 有馬の骨っぽさ、宮田の粘っこさ、これは全く大したものだった。ニューデリーのアジア大会の前に広島だったかで日本代表が合宿していた。ボクはシベリアから帰ってきていて、一度見にきてくれ、というので合宿へ行きミーティングで話をしたことがある。そのとき、話し終わって、別室にいたら、1人の男がやってきて「川本さん、あんたが今言った話は何のことかさっぱり分からん。分からん話は、もうしないでください」という。“へえ、オレの話はそんなに分からんのかナ”と思わされたが、そうネジこんできたのが有馬だった。

――直情径行でとおっている有馬さんらしいですね。有馬さんは、どんなに強い相手にも、バシッとタックルに入っていましたからネ。宮田さんはメルボルン五輪(昭和31年)の直前にアメリカ代表チームが来て大阪で試合をしたときに関西の選手として出場したことがあります。すでに日本代表を退いていたが、宮田さんの入っていた前半は関西代表は無失点、宮田さんが若手に交代すると点を取られました。アメリカの監督は、あとで、あのHBはなぜ日本代表じゃないんだと、聞いたそうです。

川本 宮田の粘っこさには、たいてい相手が嫌になる。アメリカの連中もたった一遍の試合で、嫌になったんだろう。サッカーのような対敵競技では、宮田のように相手に嫌がられるようなプレーも必要なんだ。相手が嫌がる攻め方、相手が嫌がる守り方をせないかんのだョ。

――韓国の若手に、年季の入った我が代表チームが嫌がらせをやられたりしていたんではあかんわけですネ。


(イレブン 1976年8月号「日本サッカー50年『一刀両断』」)

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