賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >人の話を聞き、人を働かせ、自らも労をいとわぬ気配りの名手。日本サッカーの大功労者、長沼健さんを偲んで

人の話を聞き、人を働かせ、自らも労をいとわぬ気配りの名手。日本サッカーの大功労者、長沼健さんを偲んで

 健さん――長沼健(ながぬま・けん)日本サッカー協会(JFA)最高顧問が6月2日に亡くなった。
 JFAの第8代会長(1994〜98年)で、日本がサッカーで今日の隆盛をみるようになった最大の功労者の一人であり、40年前の1968年メキシコ・オリンピックで3位、銅メダルを獲得した日本代表チームの監督でもあった。


選手時代の緩急問答

「あの話、まだよく覚えていますよ。“緩”と“急”のことです」。運転席から振り向いて健さんが言った。
“まだ覚えていたのか……”
 体育協会の建物の中にあったJFA事務室を訪れた私を、自分も出かけるから車で送りましょうと乗せてもらい、走り出してしばらくしてからだった。
「ずいぶん、前の話やね。健さんが関西学院大を卒業して、中央大へ行く前だったから……関学の先輩でもないのに、余計なことだとも思ったが……」
「ああいう話は初めてだったし、また違う立場の人から言われたということもあって、ずっと印象に残っていました」
 専務理事になっても、まだ、どこか記憶に留めてくれていたのか……と嬉しくもなったが……。
 あれは1953年、健さんが関学を卒業したとき、たまたま西宮球技場のスタンドで顔を合わせた。中央大に学士入学して、もう一度サッカーもしっかりやってみたいと言う健さんに、こんな話をした。
「これまでは速さが売りものだった。速いことは大切だが、緩と急という言葉があるとおり、その速さを生かすためにも、緩があった方がいいように思う」
 私は選手にプレーの話を聞く立場だから、こちらから技術や戦術について話しかけたり、ヒントを出したりすることは慎重にしてきた。それが、こういうことを話したのは不思議でもある。
 関学は伝統的に速攻を重んじてきたところで、私たちより上の世代も、まずスピード第一だった。
 広島の高等師範付属中学で、戦後復活した全国中等学校選手権(現・高校選手権)に優勝した健さんとその仲間、木村現、樽谷敬三の3人が関学に入り、速攻FWの名を一層高めていた。この関学の監督であった「かんちゃん」こと岡村寛さん(故人)が私より1歳上、神戸三中の黄金期の一人で、学校の壁を越えて親しくしてもらっていた。関西のレベルアップについても語り合った仲ということもあって、前から考えていたことを健さんに話したのだろうが、後から思えば、この人には何かプラスになる手助けをしたい――と周囲が思うようになる雰囲気があったのかもしれない。
 この緩、急がどれほど役立ったかは分からないが、その後の健さんはゴール前のここというところへ入り込む、あるいは待ち受けてゴールを奪う――という点取り屋、ストライカーになった。
 その後も健さんは何かの会合のときに、私の顔を見ると「賀川さんにはサッカーを教えてもらった」などと言っていた。この話を私は自分から話したり、書いたりすることはなかったのだが、今になって考えてみれば、この緩急問答は――人の話をよく聞き、自分に取り入れ、自分のものにして、決断し、実行する――健さんの人柄そのままのように思えて、今回、書き記した。
 違う学校、それも同じリーグといってもサッカーそのものでは格下の学校のOBのアドバイスを受け入れる度量の広さが、健さんには若い頃から備わっていたのかな――と思う。


53年のヨーロッパ大ツアー

 1953年、中央大に移った年にドルトムントの国際学生スポーツ週間(現・ユニバーシアード)に参加する学生選抜チームに健さんも参加した。1年若い岡野俊一郎(東大)も、さらに若い平木隆三(関学)も同じチームだった。大会後にヨーロッパ行脚の長期ツアーもあって、当時のJFAの幹部たちは、そう来の日本サッカーの核となる若者の傑出を願った。やがて核は育ち、60年に西ドイツ(当時)からやってきたデットマール・クラマーさんは、健さんと岡野俊一郎の2人を日本代表の監督、コーチに推し、62年12月、32歳と31歳の若いペアが東京オリンピックを邁進することになる。
“東京”(64年)での対アルゼンチンの1勝を足場に、初の企業チームによる全国リーグ「日本サッカーリーグ」(JSL)をスタートし、68年のメキシコ・オリンピックで日本代表は銅メダルに輝く。
 日本代表の東南アジア遠征から帰国して、JSL開幕までの目の回るような忙しさの65年。第5回アジア大会(66年)3位獲得の実績をつくりつつ、メキシコ・オリンピックの予選の日本開催をアジアサッカー連盟(AFC)から取りつける――といった選手を束ね、試合をし、勝つことでサッカーの人気を高めながら、その間にリーグ運営にも力を尽くす――という、まさに“大車輪”の働きの後、68年の銅メダルがあった。クラマーという偉大な“教師”のたゆまざる激励とヒントがあったにしても、健さんの一見、ヌーボーのようで選手の心をつかむ気配りと、一つ一つの実務を着実にこなしてゆく誠実さと能力なしでは栄光はなかった。参謀役の俊さん(岡野俊一郎)とのペアプレーは見事で、不世出のストライカー、釜本邦茂(メキシコ・オリンピック得点王)も、銅メダルの勝因は「高度順応に成功したこと。コンディションづくりのうまさです」と監督、コーチの手腕を挙げている。


停滞期に準備、発展期の決断

 私と冒頭の会話をしたころは、専務理事として協会の財政建て直しや改革に懸命で、それに続く副会長時代も代表の国際試合での不成績でJSLの人気も落ちた“停滞”の時期だったが、その中でも次への準備を怠らなかった。
 プロ化の推進の責任者に後輩・川淵三郎(現・JFAキャプテン)を据えて、1993年にJリーグをスタートさせ、やがてJFA第8代会長となり、あの96年のチューリヒでの2002年ワールドカップKOREA JAPANの共催決定を決断する。
 そしてまた、98年のフランス・ワールドカップの予選の途中で成績不振の監督を更迭するといった非常事態を乗り切り、初のワールドカップ出場をも果たした。
 これらの健さんの仕事ぶりは『このくに と サッカー』の2003年9〜12月号に掲載しているが、会長を退き、名誉会長から最高顧問となっても、穏やかな笑みと静かで的確な語りは、いつの集まりでも人を惹きつけた。
 私にとっても「先輩」と言いながら手を差し出す健さんに会えることは、いつでも心の温まる時間だった。
 6月2日、東への車中で“ふっ”と健さんの気配を感じて、うつつのうちに会話を交わした。
 横浜のスタジアムで記者登録に並んでいるとき、隣の記者の携帯が鳴り、訃報がもたらされた。
 あまりのショックに、私はしばらく立ち直れないでいた。ようやくこのごろ、先輩たちが向こう岸で手を叩いて、「健さん、ご苦労さんやったなあ」と迎えているだろうと思うことにしたのだが……。


★SOCCER COLUMN

メキシコ予選、歓喜のウイニングラン
 1967年10月10日、メキシコ・オリンピック・アジア予選最終日、日本はベトナムに1−0で勝って、4勝1分け、得失点差で韓国を抑えて五輪出場権を獲得した。
 試合直後、日本代表は大日章旗を掲げてグラウンドを一周し、スタンドの歓呼を浴びた。スタンドから何人かのファンが飛び降り、選手と一緒に走ったが、まさに観衆とプレーヤーがともに喜び合った歓喜のウイニングランだった。
 実はこの日の丸の旗は、健さんがJFAに頼んで用意させたもの。韓国と3−3で引き分けた後、ベトナムに勝てば優勝、オリンピック出場――引き分ければ韓国が1位になるという緊迫した空気の中で、勝ったときには多くのファンと一緒に喜ぶためには、何が良いかを考え、人知れず大きな日の丸を持って走ることを考えた。
 試合に勝つために全力を尽くすだけでなく、勝った後の手配もするところが健さん――翌日の新聞紙面を飾った日本サッカーにとっての記念すべき世紀のシーンは、実は長沼健の演出であったということになる。


(月刊グラン2008年8月号 No.173)

↑ このページの先頭に戻る