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回想ヨーロッパ選手権(1)

 今年夏、オーストリアとスイスの2ヶ国の8会場でヨーロッパ選手権(EURO 2008)が開催される。サッカーの“大国”でもなく“強国”でもない両国だが、ヨーロッパの中央部にある景色の美しいこの地での大会を想像するだけでも楽しい思いがする。

 初めてヨーロッパ選手権を取材したのは1980年のイタリア大会だった。  1960年にはじまった4年に一度のナショナルチームにより欧州ナンバーワンを目指す争いは、ホーム・アンド・アウェーで勝ち残った4チームが1ヶ所に集まっていたのを、この年から地域予選を勝ち抜いた7チームと開催国がイタリアに、集結することになった。 すでに74年(西ドイツ)78年(アルゼンチン)と2度のワールドカップを経験していたが、欧州の8ヶ国のナショナルチームをまとめて見られるのは何より――と出かけたのだった。
 以来84年フランス大会、92年スウェーデン大会、96年イングランド大会、さらには2000年のベルギー・オランダ共催の大会にも顔を出す仕儀となる。88年の西ドイツ大会はちょうど、私の企画会社の大きな仕事と重なって動きが取れずに見送った。そのため、マルコ・ファンバステン(オランダ)の歴史に残る決勝ボレーシュートを見損なったが・・・・・・。


イタリア大会と八百長事件

 80年大会は、当時のイタリアは経済も低調で、日本への国際電話が通じるのにとても時間がかかった。大会直前に明らかになった八百長事件で代表ストライカー、パオロ・ロッシにも疑いがかかって出場停止処分を受けた。開催国としてはまことに不首尾だった。私には新しい西ドイツ代表の監督が、かつて釜本邦茂を指導したユップ・デアバルだったから、いい取材もできた。

 フランス大会は運営もしっかりしていたし、開催国のチームには将軍ミシェル・プラティニをはじめ、アラン・ジレス、ジャン・ティガナたちがいて、実力を発揮して優勝した。  ドラガン・ストイコビッチ(ユーゴ)ミカエル・ラウドルップ(デンマーク)エンゾー・シーフォ(ベルギー)などの若い俊才もいた。


BBCラジオで…

 80年、84年ともに日本からの取材は少なく、フリーランスのカメラマン数人と、サッカーマガジンやイレブンの記者だけだったか―。
 ワールドカップであれば(そのころの日本は本大会には出場していないが)日本にも関係のある大会、ヨーロッパ選手権となると、アジア連盟所属の日本とは直接関係はない。そんなところから、「何故、日本からわざわざ取材に来たのか」とBBC(英国国営放送)のラジオにつかまって取材をされる羽目になった。
「ヨーロッパではサッカーが社会に根付いている。その各国代表が戦う大会は、ある意味からゆけば、ヨーロッパ社会、ヨーロッパの文化をそのままうつしているように私からは見える。」「この大会では、フランス代表が攻撃的なのが面白い。彼らがこのまま勝ち進めば、守備的傾向の強いヨーロッパで大きな刺激となるだろう。だから私はフランスに勝って欲しいと思っている。」などと答えたものだが…果たしてどこまで通じたかどうか…。


イタリア人の心を知るスペルガの丘

 ワールドカップに比べると試合数が少なく、取材日程にも余裕があったから、試合以外にも、見るべきものを見た。トリノのスペルガの丘へ車を走らせ、あのFCトリノの飛行機事故(1949年5月4日)の現場を訪れた。当時のイタリア最強のチームが激突した山腹につくられた碑の前に立ち、その供花がたえることのないと聞いた。犠牲になった選手ひとりひとりの名を読んで子どもに語りかけるおじいさんの姿を目にしながら、イタリア人のいうシンパチコ(相手を思いやる心)とこの国の人とサッカーとの結びつきの強さを知った。

 ブライアン・グランヴィルという英国の大記者との付き合いも“欧州”からだった。イタリア人と同じように早口でイタリア語をしゃべる背も高くハナも高い彼を知った。
 マンチェスター・ユナイテッドのかつての名選手、デニス・ロウにローマで日本製の手鞠(てまり)を進呈した。彼は“ネバー・シーン(初めて見た)”をくりかえし喜んでくれた。ワールドカップなどでボビー・チャールトンに会うと、彼の方から「デニス・ロウは元気ですヨ」とか「彼の娘がユナイテッドのオフィスにいる」とか声をかけてくれるのはデニス・ロウがボビーに伝えたからかも知れない。


(月刊サッカー通信BB版 2008年5月号掲載)

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