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回想ヨーロッパ選手権(2)

EURO84 デアバル辞任とシュスター

 EURO84――欧州選手権フランス大会が開催された1984年6月は、第二次大戦の終結への大きなポイントとなった連合軍のノルマンディー上陸の40周年だった。その記念式典に参加するために、かつての軍人とその家族の多くがアメリカから訪れていた。  この年私は10年続けたスポーツ紙の編集局長を退任し、新しい企画会社の社長となった。その会社の企画の一つとして釜本邦茂の引退試合と、芦屋でのロードレース開催を夏と秋に控えていたが、周囲の好意のおかげで、フランスに出向くことが出来た。
 年齢もまだ若く60歳だったから、フランス語不得手というハンデにも関わらず6月11日から7月1日までの大会は楽しいものだった。

 西ドイツ代表の調子が上がらず、1次リーグで敗退し、その責任を取ってユップ・デアバル監督が解任された。80年EURO優勝、82年W杯準優勝の実績を上げながら、EUROの1次リーグ敗退の“不成績”で追われる強国の監督の厳しさを見た。80年大会で注目されたベルント・シュスターが、82年でもこの大会でも代表に加わらなかったのがデアバルさんの不運だったが……シュスターはスペインリーグで名を上げたが、代表として国際試合で活躍すればマラドーナと並んで時代の大スターになっていたハズなのに……そのデアバルさんが亡くなり、ベルント・シュスターは今年レアル・マドリードの優勝監督となっている。時の歩みというべきか――。


EURO92とベルリン・オリンピック

 ミシェル・イダルゴ監督とミシェル・プラティニ、2人のミシェルによるフランス代表の黄金期は、14年後の98年フランス・ワールドカップでの優勝への大きなステップとなった。98年はアフリカ系プレーヤーの大幅な増加という変化はあったが、フランス流の“攻め”のフットボールは変わることはなかった。
 88年の西ドイツ大会は、企画会社の大きな仕事のために取材に行けなかった。マルコ・ファンバステンのあの歴史に残る決勝ボレーシュートをナマで見なかったのは残念――。

 92年の開催国スウェーデンは日本に縁の深い国。このときの“ヨーロッパ選手権の旅”(サッカーマガジン連載)を“わがセンチメンタルジャーニー”と名付けたのはベルリン・オリンピック(1936年)でスウェーデンを破った、日本代表の私より少し年長の先輩たちを偲ぶ気持ちからだった。
 ストックホルムの図書館で当時のスウェーデンの新聞を眺め、その敗戦の驚きぶりを見た。飛行機の隣席の若い人、プレスの話、そしてハンス・ヨハンソンUEFA会長。多くのスウェーデン人が世代を超えてこのベルリンの敗戦を記憶していた。日本では知る人が少ないのに――。UEFAの総会取材でヨハンソン会長に1936年のことも調べていると言ったら会長さんは「あの時は大変だった」と手で顔をおおってみせた。
 日本サッカーの歴史をもっと多くの人に知ってもらいたいと思うようになった。


(月刊サッカー通信BB版 2008年6月 第1号掲載)

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