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【番外編】アジアカップ2007より せっかくの“走る”を生かすためには…

 今週から、この『ストライカーの記憶』に登場してもらうプレーヤーに、西ドイツ(当時)の1970年代のCF(センターフォワード)ゲルト・ミュラーを考えていた。
 それまでの3人、フェレンツ・プスカシュ(ハンガリー代表/レアル・マドリード)ミシェル・プラティニ(フランス代表/ユベントス)マリオ・ケンペス(アルゼンチン代表/バレンシア)は、もちろんサッカー史上の有名人だが、その一人ひとりは異なる個性の主だった。
 プスカシュは「オチ」(おチビさん)と呼ばれていたほど小柄だった。
 プラティニは“将軍”のニックネームどおり、チームの指揮官であり、FKの名手でもあった。
 ケンペスは将軍ではなく、先兵と言えた。それもドリブル突進に“槍”の鋭さを持っていた。
 三人三様の彼らにあって、共通するのはシュートの巧さであり、キックの正確さであり強さであった。プラティニは16歳の頃、すでにハーフラインからゴールを狙ってシュートの練習をしていたし、プスカシュもケンペスも少年期、“殺人的シュート”で、ともに近隣の大人たちの間で有名だった。
 70年ワールドカップの得点王で、74年大会の決勝ゴールを決めて西ドイツの優勝に貢献したミュラーは、これまでの3人とはまた違った個性の持ち主だった。
 それについては次号からお話するとして、今回は“番外編”として、アジアカップについて、このページをお借りしてテレビ観戦の私見を――。

 日本がパスをつなぎ、人数を投入して攻め込むと、相手は多人数の守りで防ぎ、少数の速攻で反撃するというサウジアラビアと日本の試合の前半で、日本のボールポゼッション(昔はキープと言っていたが)が圧倒的な比率なのに、日本のシュートは3本、サウジのシュートは6本だった。
 このことは、攻めてはいるが“攻め込んで”はいないことを示す。つまり、シュートレンジ近くにボールを運んでもシュートをするのは少ないということだ。それは、シュートするタイミングやスペースを生み出せないためなのか、あるいはシュートの自信がないためか――。
 いずれにしてもサウジアラビアとの戦いは、1930年(昭和5年)の極東大会で、初めて日本代表が中華民国(当時)と3−3の引き分けを演じたのと同じような経過をたどった。
 中華民国が、大柄で速くシュートも上手いCFを中心とするドリブルやロングボールの攻撃で3点を奪うと、日本もショートパスをつなぐ組織的な攻めで3ゴールを返して、結局、引き分けとなった。
 以来、日本代表は、相手より多い運動量で、短いパスをつなぎ、敏捷に動いて攻める。守りでは1対1の劣勢をこれも走って多数防御の形にして防ぐ――をテーマに力をつけてきた。
 ベルリン・オリンピック(1936年)での優勝候補スウェーデンに対する逆転勝ちのときに、スウェーデンのライオアナウンサーは「ここにもヤパーナ(日本人)、そこにもヤパーナ、日本の方が数が多く見える!」と叫んだと伝えられている。
 その戦い方は、68年メキシコ・オリンピックにも踏襲されて銅メダルに輝いたが、第2次大戦での大幅な技術低落から立て直しを図ったデットマール・クラマーは、日本人の特性である勤勉さ、機動力を生かすために、まず、「基本技術のアップ」から取り組んだのだった。
 そうした流れの中で、36年は川本泰三、68年は釜本邦茂という、当時の日本では傑出したストライカーが育って、世界を驚かせる試合を演じたのだった。

 今度のアジアカップでも、日本サッカーのスタイルは際立っていて、現地では、おそらく高い評価を受けているだろうと考えられる。
 酷暑、多湿の中で“走るサッカー”は大きな制約を受ける。私自身、アジアでの大会取材は2度しかないが、釜本のいた上り坂の日本代表も66年アジア競技大会(タイ・バンコク)では過密日程のために動きが止まり、3位に終わったのを見た。
 今回は高原直泰の成長もあり、巻誠一郎の進歩も加わった。ボールを狙ったところへ落下させるパスの名手・中村俊輔や、Jリーグの攻撃ナンバーワンチームのリーダー、遠藤保仁もいた。選手たち一人ひとりの頑張りは、テレビの画面からも伝わってきた。  それでもなお、個人力突破にしてやられ、守る相手から3点目を奪えなかった。体力消耗が大きいからである。
 その体力消耗を避け、走るサッカーの効果を上げるには、それをつなぐキックの正確さ(多様さや強さを含め)、シュートの破壊力を、もっと高い質にしなければなるまい。
 今の選手の環境や素材から見て、蹴ることへの着意と反復練習が少ないように私には見えるがどうだろう。
 若年層を預かる指導者の皆さんの努力にも期待したい。


(週刊サッカーマガジン 2007年8月7日号)

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