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ゲルト・ミュラー(3)74年W杯決勝でも本領発揮した“爆撃機”反転シュートで決めた決勝ゴール

 試合開始後1分に、ヨハン・クライフがウリ・ヘーネスのトリッピングで倒された。ペナルティーエリアの中だった。ジョン・テイラー主審(イングランド)がためらわずに指示したPKを、キッカーのヨハン・ニースケンスはゴールの中央に蹴り込んで、オランダが早々と先制ゴールを決めた。
 オランダがキックオフから前後左右にボールをつなぎ、まだ一度も西ドイツ側がボールに触れていない時に、自らのドリブルでPKのチャンスを生み出した――この時のクライフは、まさに“風林火山”。ゆったりしたキープから、突如としてスタートし、迎え撃つベルティ・フォクツとの広い間合いを利して、大きく左へ外し、スワープを描きながら、スピードで振り切り、ペナルティーエリアへ侵入した。その“静”から“動”への移行はまさに“風のごとく”であり、彼の特色の一つ、“緩急の落差の大きさ”を見事に発揮したものだった。

 ただし、クライフはこの後、その輝きを失ってしまう。彼のマーク役のフォクツが、この失敗の教訓から、より密着マークを厳しくしたこともあるだろうし、このリードで、オランダ側に“楽勝ムード”が生まれたからかもしれない。
 後から考えれば、西ドイツ側は、すでにチャンピオンズカップ(現・チャンピオンズリーグ)でフランツ・ベッケンバウアーのバイエルン・ミュンヘンがクライフのアヤックスに敗れたときに、彼らの試合運びを経験していたし、この大会でのオランダのプレーについての分析も十分にしていたはずだ。
 4年前の大会の得点王をFWに持つ3位チームで、2年前の欧州チャンピオンの実績のある相手チームを、叩けるときに叩いておかなければ、と誰もが思うのだが…。

 西ドイツが攻勢に出る。パウル・ブライトナーやライナー・ボンホフといった第3列、第2列がどんどん飛び出し、まるでオランダのお株を奪うような動きを見せ始める。
 驚いたことにゲルト・ミュラーも、ときには自陣25mあたりまで戻って守りに加わっている。もちろん、相手ペナルティーボックスでは得意の反転プレーでDFピム・レイスベルヘンを悩ませる。
 第2列から長いドリブルで仕掛けるヘーネス、俊足のベルント・ヘルツェンバインたちへのオランダ側のファウルが増え始める。
 20分頃だったか、ミュラーがレイスベルヘンとの奪い合いの時に、相手の足を踏んでファウルを取られた。笛を吹いたテイラー主審の背後で、オランダのピム・ファンハネヘンがミュラーの背中を手で突いた。スタンドからの感じでは、“足を踏むなんて、ちょっとひどいじゃないか”という程度の手の出し方だったのだが、ミュラーはバターンと倒れ、ボルフガング・オベラートが叫んだ。主審が振り向き、線審ラモン・パレット・ルイス(ウルグアイ)に確かめ、ファンハネヘンにイエローカードを出した。

 随所に挽回への強い意思を見せる西ドイツは、ヘルツェンバインがオベラートからのパスを受けて、ドリブルでペナルティーエリアに侵入して倒され、このPKをブライトナーが決めて同点にしてしまう。GKヤン・ヨングブルートが先に左へ動いたが、ブライトナーは右足で左下隅へ送り込んだ。
 受け身になったオランダにも、大きなチャンスがあった。フォクツが飛び出して相手陣内でパスを受けて潰され、クライフがハーフラインを越えてドリブル。左にヨニー・レップが開き、守るのはベッケンバウアー一人だけだったが、“皇帝”は見事な対応でクライフの突破を許さず、パスを受けたレップのシュートはGKゼップ・マイヤーの前進守備で防がれた。

 43分、西ドイツに2点目が生まれた。オランダがカウンターに出て、右に持ち上がったピム・シュルビアが、左前方のニースケンスへ長いパスを送ったが、これをボンホフが奪い、ヘディングでマイヤーへバックパスした。
 そして、マイヤーからのボールがDFのゲオルク・シュバルツェンベックに渡ったところから、攻撃が始まる。ボールはすぐ前方のユルゲン・グラボウスキーに渡り、右タッチライン沿いにグラボウスキーがゆっくりドリブルすると、その横をボンホフが駆け抜けてパスを受け、アリー・ハーンの追走を振り切ってペナルティーエリアに侵入、奪いに来たレイスベルヘンを縦に外して、中へ、後ろめへパスを送った。
 そこにミュラーがいた。その強いパスをミュラーは左足に当てて後方へそらしてしまう(止め損なったと本人は語っている)。しかし、ここからが彼の本領。後方へ戻って、体のひねりを利かせて右足でこのボールを叩くと、タックルに来たルート・クロルの足の間を抜け、ボールはゴールへ。動きの逆を突かれたGKヨングブルーの手は届かなかった。


(週刊サッカーマガジン 2007年8月28日号)

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