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ゲルト・ミュラー(4)トータルフットボール同士の74年W杯決勝で見せた決定力

 8月22日夜、フル代表がキリンチャレンジカップ(大分)でカメルーンに2−0で勝ち、U−22代表が北京オリンピックのアジア最終予選の第1戦(東京)でベトナムを1−0で破った。
 サムエル・エトオを含むカメルーン代表が、長い旅や時差というハンディを抱えながら彼らの特色を(全てとは言わないが…)見せてくれたのはありがたかったが、何より、闘莉王を中澤佑二の2人のセンターバックが揃ったのは嬉しかった。2人がパーフェクトとは言わないが、現代の中央部のディフェンダーは体の面でも、技術の面でも気持ちの面でも、このクラスの選手が揃わなければ国際舞台で戦うのが困難なことは、多くの事例が示すとおりである。
 2人のプレーによって、大型の若者がディフェンダーの面白味を感じ、彼らの後を継ぎたいと思うであろうことを期待したい。
 U−22代表は、ひどい内容だった。平山相太のプレーからは、期待だけが大きくて適切な指導やアドバイスのないままに過ごしたであろう日々の空しさが漂っている。

 さて、こちらは1970年代に最も成功したストライカーの一人、ゲルト・ミュラー。
 74年ワールドカップ決勝のオランダ戦での、彼の勝ち越しゴール(チーム2点目)を前号で紹介した。
 この試合は、ミュンヘン・オリンピックスタジアムで行なわれたが、私の記者席は高い位置ではなく、臨時席で最前列にあり、ピッチレベルと変わらぬ高さのために俯瞰には不便だったが、選手同士の絡みやぶつかり合いの激しさを身近に感じることができた。当時はビデオがまだ普及しておらず、大阪・梅田の『サッカーショップ加茂』に置かれていたビデオで、帰国後繰り返し見せてもらって、フランツ・ベッケンバウアーの防御の上手さや、この2点目のアプローチとフィニッシュを復習したものだった。
 この2点目のシーンを何度も見ているうちに、“西ドイツ(当時)もこの試合ではオランダ流のトータルフットボールをやっていたのだ”と思うようになる。考えれば西ドイツは、まずマン・フォア・マンだから、オランダ相手に動けば、同じような動きになるのは当然だろう。
 相手のヨハン・ニースケンスの飛び出しを追って自陣深くへ戻った(パスをインターセプトしている)ライナー・ボンホフが、長い疾走で飛び出したのは(ボンホフの個人的特徴であるとともに)トータルフットボールの一つということになる。

 双方が同じように動くとなると、そのフィニッシュの場面に誰がいるか(点を取れる者がいるか)が問題。しかし、西ドイツにはミュラーがいたのだった。
 ビデオのリプレーを見ると…。ユルゲン・グラボウスキー、ボンホフとボールが動き、ボンホフがドリブルで進む間のウリ・ヘーネスやボルフガング・オベラートのポジショニングも面白いが、ミュラーの走るコースが、自分の狙う地点へダイレクトではなく、曲線を描いて入っていくところが興味深い。
 そうしてボールを受けた後、戻って体のひねりを利かせた右足シュート。そのシュートは、まるでタイミングを計ったようにルート・クロルの両足の間を抜けていった。GKヤン・ヨングブルートからは、ひょっとするとミュラーが蹴った瞬間は見えていなかったのかもしれない。
 のちに、この場面を“ベルリン五輪の名人”川本泰三さん(故人)と話したとき、「あの体のひねりは彼独特のものだが、このタイミングで蹴るとゴールキーパーにとってブラインド(見えないこと)になることを、彼の感覚では分かっているのだろう。相手を前にしてシュートするのもストライカーの一つの手だから…」と“名人”は言ったものだ。

 後半初めも西ドイツには組織的な攻めがあったが、途中からオランダが動きやパスで崩すよりもロブ(高いボール)攻撃に出た。
 長身のオランダ勢の空中での優位は西ドイツを圧迫し、第2波、第3波と攻めが繰り返されてチャンスが生まれたが、GKゼップ・マイヤーのファインプレー続出と、パウル・ブライトナーたちDFのゴールカバーなどで西ドイツが守り切った。
 ミュラーはこの試合の後、代表からの引退を決める。「クラブと代表の試合が多すぎて、子供と過ごす時間が少ない」のが理由だった。
 そのため、ワールドカップ優勝を決めたこの得点が、彼の代表最後の68ゴール目(62試合)となった。28歳、まだ働き盛りだったのだが…。
 彼の名を世界が知ったのは、この4年前の70年、メキシコ・ワールドカップのときだった。この大会は円熟のペレとその仲間たちの輝かしい優勝で知られているが、彼らとともに注目されたのが、ゲルト・ミュラーのゴールラッシュだった。


(週刊サッカーマガジン 2007年9月4日号)

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