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ゲルト・ミュラー(7)聖地ウェンブリーでイングランドを屈服させ、“ゴール力”を伸ばしたEURO72

 オーストリアへ出かけた日本代表は、オーストリアと0−0(PK戦で敗れる)、スイスと4−3という成績だった。前半の早いうちに0−2とリードされたスイス戦を追いつき、リードし、同点にされ、そして勝ち越したのは、選手たちの粘り強さ、体力的な強さ、技術の高さがうまく結びついた結果と言えるだろう。
 一方、北京オリンピック最終予選を戦っているU−22日本代表が、2勝1分け、得点2、失点0で、グループの首位で前半(各チーム6試合)を終えた。
 対サウジアラビア(アウェー)と対カタール(ホーム)は、FWに平山相太でなく森島康仁が起用されて話題を呼んだ。セレッソ大阪では“デカモリシ”と呼ばれている森島も、FC東京の平山も、ここのところクラブではフル出場するレギュラーメンバーではない。
 平山は1985年6月6日生まれで、現在22歳。“デカモリシ”は87年9月18日生まれだから、ちょうど20歳の誕生日が来たところ。それぞれ190cm、186cmの上背があって、タイプは違うが、ストライカーとして将来を期待されている。

 この“記憶に残るストライカー”のシリーズでは今、ゲルト・ミュラーを連載中だが、70年代の最も優れたストライカーであった彼は、「自分の技術を磨くのに、特別な練習をしたか」との問いに「若いときには、とにかく試合に出た。それも、ユース、トップ、ベテランズなど、いろいろなチームの試合に入れてもらった。土曜日の朝にユースBの試合に出て、午後にユースAの試合に出たこともあった」と答えている。
 1日に2試合――といえば、このシリーズの最初に紹介した“偉大なるマジャール”フェレンツ・プスカシュ、60年代第1黄金期のレアル・マドリードのスーパースターであった彼も、キシュペスト・アスレチッククラブの一軍に16歳で入ったとき、一軍の練習の後にジュニアチームでプレーするダブル・トレーニングを続けた。
 必ずしもJチームのレギュラーでない若い大器が、この伸び盛りの時期にどれだけ練習と実戦を繰り返すことができるのだろうか――。

 ゲルト・ミュラーが70年ワールドカップ(W杯)得点王となったのは24歳、ハンガリーのプスカシュがヘルシンキ五輪で優勝したのは25歳、釜本邦茂がメキシコ五輪の得点王になったのは24歳。“デカモリシ”にも平山にも、それほど遠い未来の話ではない。焦ることはないにしても、『光陰矢の如し』の諺もある。彼らの成長に関わるコーチや関係者の皆さんのバックアップと、本人自身の努力を期待したいところだ。

 さて、話を連載の本筋へ――。
 70年W杯3位、そして大会得点王(10ゴール)となったゲルト・ミュラーは、4年後の自国開催となったW杯で西ドイツ(当時)の優勝に貢献する(このシリーズの(1)〜(4)参照)のだが、代表チームと彼には、その間にもう一つのタイトルが用意されていた。
 70−72年のヨーロッパチャンピオンである。
 58−60年からスタートして、第5回目となる70−72年は各地域予選を勝ち抜いた8チームが準々決勝(ホーム・アンド・アウェー)を戦い、ベスト4をベルギーに集めて、72年6月14〜18日に準決勝、3位決定戦、決勝を行なった。
 のちに80年に8チームの集結大会となり、96年には16チームの本大会へと規模が大きくなるのだが、この70−72年大会は、準々決勝で西ドイツが、初めて“聖地”ウェンブリーでイングランドを倒したことで、ドイツ側にとっては記念すべきイベントだった。

 西ドイツ代表は70年10月から始まった予選の第8組でトルコ、アルバニア、ポーランドと戦い、アルバニアには2勝、トルコとポーランドには1勝1分けでトップ通過した。ミュラーは計6ゴール。強敵ポーランドとのアウェー(3−1)でも2得点を挙げて勝利を確定した。
 対イングランド第1戦は72年4月29日、ウェンブリーで行なわれ、西ドイツが3−1で勝った。フランツ・ベッケンバウアーが見事にチームを統率し、ギュンター・ネッツァーの長いパスが通って、西ドイツの攻撃展開はウェンブリーに詰めかけた10万人の誇り高きイングランド・サポーターをも感嘆させた。ミュラーは3点目を決めて決着をつけた。

 6月14日、準決勝(アントワープ)のベルギー戦も、ミュラーの2ゴールで2−1。ソ連(当時)との決勝は3−0と一方的。ミュラーは2ゴールを決め、ブリュッセルのファンを喜ばせた。
 このEURO72は、ネッツァーの働きが光り、74年W杯優勝の西ドイツ代表よりも72年のチームの方を好む人もいるほど。ミュラーは試合中も余裕たっぷりで、ゴールを奪う気になればいつでも取れる、という感じに見えた――という声もあった。準々決勝からの4試合で5得点――彼の“ゴール力”はとどまることはなかった。


(週刊サッカーマガジン 2007年9月25日号)

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