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ゲルト・ミュラー(8)W杯に加え、欧州チャンピオンズ杯をも制した図抜けた反射神経とゴール嗅覚

 1960年代から70年代にかけて、西ドイツ(当時)のバイエルン・ミュンヘンと西ドイツ代表チームで不滅のゴール記録を残したゲルト・ミュラー(1945年生まれ)について、これまで7回にわたってその記録の数々と、代表チームのFWとしてのゴール場面のいくつかを取り上げ、ミュラーの特徴を描いてきた。
 バイエルン・ミュンヘンでのリーグ365得点(427試合)、ドイツカップ75得点、欧州チャンピオンズカップ(現・チャンピオンズリーグ)35得点は、熱心なミュンヘンのサポーターにとって一つ一つが忘れることのできないものだろうが、それはひとまずおくことにして、チャンピオンズカップでの記憶に残るゴールと、彼のようなストライカーがどのようにして育ったかを紹介して、“ボンバー(爆撃機)物語”を終わることにしたいと思う。

 ドイツの南部、バイエルン州のネルトリンゲンという小さな町で育ったゲルト・ミュラーは、フランツ・ベッケンバウアーと同じように第2次大戦の終わる年の生まれだから、ドイツ全体が戦争の荒廃にあるなか、豊かとはいえない少年時代だったはずだが、6歳からフットボールに夢中になり、11歳で地元のクラブ、ネルトリンゲンTSVのジュニアチームでセンターフォワード(CF)になっていた。子どもたち同士の遊びのサッカーの中で、ゴールを決める彼は自然にCFになり、年長のチームでもゴール前を任されていたらしい。
 そのゴールを奪う才能に目をつけたバイエルン・ミュンヘンとミュンヘン1860の2つのクラブが争奪戦を演じ、バイエルンが獲得するのだが、ミュラーの少年期の憧れは、ネルトリンゲンの南東128kmのミュンヘン市のクラブではなく、92km北にあるニュルンベルク市の1FCニュルンベルクだった。ここには54年ワールドカップのヒーロー、マックス・モーロックがいたからだった。

 64年にバイエルンと契約した彼は、そこでベッケンバウアーと顔を合わせる。自分より2ヶ月ほど遅く生まれた“太っちょの新人”と一緒に食事をしたとき、スープ皿のそばを飛んでいるハエを、ミュラーがパッと手を動かしてつかみ取る。その反応の速さに感動した――と、ベッケンバウアーは語っている。
 ユーゴ人の監督ズラトコ・チャイコフスキー(通称チック)は、はじめミュラーを太り過ぎとみて食事制限を課したが、しばらくしてこれを撤廃。ずんぐりむっくりの体そのものが、彼の特色だと悟ったのだろう。
 65−66年シーズンから一軍に入ったミュラーが、67年のリーグ得点王を皮切りに驚くべき得点記録を書き加えていったのは、これまで書き連ねたとおりだ。

 ある雑誌のインタビューで「自分のベストゴールは?」と聞かれたミュラーは、「74年のチャンピオンズカップ決勝、アトレティコ・マドリード(スペイン)戦(5月17日/ブリュッセル)でのゴール」と答えている。これは5月15日の決勝が1−1で、延長も0−0だったための再試合(当時、PK戦はなかった)で、バイエルンが4−0で勝った試合だった。
 ミュラーは、この試合で2ゴールしていて、まずウリ・ヘーネスの得点で1−0とした後、チームの2点目を彼が決めて完勝への道を拓くのだが、それはハンス・ヨーゼフ・カペルマンの左からのクロスを右のライナー・ツォーベルが折り返し、至近距離から右足で叩き込んだもの。これは彼にとってもクラブにとっても、初の欧州チャンピオンを決定付けるゴールだった。

 75年チャンピオンズカップ決勝、対リーズ(イングランド)の2点目も印象に残るもの。この年にあのデットマール・クラマーがバイエルンの監督になっていたから、このリーズ戦(5月28日/パリ=パルク・デ・プランス)はテレビニュースで流され、私の記憶にも残っている。
 リーズ・ユナイテッドの猛攻をしのぎつつ、“牡牛”フランツ・ロートの強シュートで先制し、ミュラーの2点目で勝利を確定させた。カペルマンが右サイドからゴールラインまで侵入して送ったパスを、相手の鼻先で捉えたミュラー得意の右足シュートだった。
 テレビニュースで、彼が後方から(相手側から消えた位置から)ダッシュするシーンを見て、やはりミュラー…と思ったのを、30余年後の今も覚えている。
 このゴールによって、74年ワールドカップで主力を代表に送り込んだバイエルンが、このシーズン、まったくの不調だった中で欧州の覇者となり、クラマー監督にとっては欧州のビッグタイトルを初めて手にすることになった。
 ペナルティーエリア内で、誰よりも早くチャンス地点を予知し、ゴールを重ねた“太っちょ”のストライカーは今、ミュンヘンで若い選手たちの指導にあたっている。


(週刊サッカーマガジン 2007年10月2日号)

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