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サッカー 故里の旅 第10回 トルコ代表のモダンサッカーに釜本の師デアバルの影を見る

 プロ野球や甲子園の高校野球、再開したヤマザキナビスコカップと、A紙の賑やかなスポーツ面に「共催の試み(オランダ、ベルギー)」2000年欧州選手権――という連載企画(上・中・下)が掲載された。2002年のW杯の日韓共催と欧州選手権のオランダ・ベルギーの共催ではスケールや、両国間の事情に違いはあるだろうが、ともかくヨーロッパの事例、すでに動きはじめている先例をメディアが自らの手で確かめ、多くの人に伝えてくれるのはまことにうれしい。
 世界のスポーツ、サッカーへのこうしたメディアの積極的な取材が増えることは、日本のスポーツ界の蓄積がふえることになると思う。
 さてこちらは、ことし6月の欧州選手権、ヨーロッパの精鋭16チームによる戦いと、その背景さらには舞台となるサッカーの故里(ふるさと)を眺める連載――今回は初登場のクロアチアとトルコの試合から。


新顔ながら評価の高いクロアチア

「トルコに驚きましたネ」――顔を合わせるなり、O君がこういう。
“個人的なテクニックもいいが、試会ぶりも近代的だネ。デアバルさんやピオンテクの効果だろうか”と答えるわたし。6月13日、ニューキャッスルのセント・ジェームズ・パークのプレス・ルームでひとしきり、トルコ対クロアチア戦の話がはずんだ。8日に開幕した「EURO96」は、11日までに1次リーグの各組1回戦を終わり、13日から各組の2回戦――。
 この日はバーミンガムでA組のスイス対オランダ、ニューキャッスルでB組のブルガリア対ルーマニアが予定されていた。

 トルコ対クロアチア戦(11日 ノッティンガム)は、わたしたちにはちょっとした驚きと発見だった。
 クロアチアはユーゴスラビア連邦のひとつであったころから上手な選手を生み出し、こんどの代表にもバルセロナのプロシネツキ、ACミランのボバンをはじめ、イタリア、スペイン、イングランド、ドイツなどの欧州の大国のトップリーグで働くものが多い。Jリーグのガンバ大阪のムラデノビッチも加わっていて、チームとしての合同練習がどれほどかはともかく、顔ぶれからいってもまず一級。開幕前から高い評価を受けている。
 そのクロアチアとトルコが、90分のうち85分まで0−0だったのだから…。クロアチアの唯一のゴールは、トルコの左CKを防ぎ、はじきかえされたボールをアサノビッチがとって左サイドへドリブルして、そこからハーフライン中央へパスを送り、ブラオピッチがみごとなドリブルで突進し、右へ斜行して、ゴールキーパーを右へかわし、右足でシュートを決めたものだった。
 このドリブルは、追走する相手DFのコースを斜めに横切るという、いかにもストライカーらしい動きだったが、このとき、自分の走るコースを横切る相手のストライカーを、トルコのDFがファウルで倒さなかったところが、この試合のハイライトだった。
 トルコの選手たちの闘志満々のプレーはファウルの数も多かったが、この重大なピンチに悪質な反則をしなかったのが気持よかった。
 トルコでよかったのは、彼らが、ドリブルがうまく、小さなモーションでパスを出す選手が何人かいたこと。展開が小さく、また、シュートチャンスに、なおパスコースをさがすというマイナスもあったが、ともかく、西アジアといっていいトルコが、欧州スタイルの展開をするところに驚いたのだった。

 トルコのサッカーといえば、わたしはドイツ人のユップ・デアバル監督を思い起こす。彼はゼップ・ヘルベルガー、シェーンにつぐ西ドイツ代表の三代目(第二次大戦以後)の監督だった。1978年のW杯の後に引退したシェーンに代わって就任し、80年の欧州選手権優勝、82年W杯スペイン大会2位の好成績をおさめた。
 彼は1968年1月に、ザールブリュッケン州のコーチであったとき、釜本邦茂を2ヶ月間トレーニングし、開花期にあった彼に大きな刺激を与え、その年のメキシコ・オリンピック得点王、ひいては日本チーム鋼メダルの素地をつくったのだった。
 そうした優れた業績を持つデアバル監督だが、84年欧州選手権1次リーグ敗退の責任を問われ、地位を去ることになる。欧州の厳しさだが彼を迎えたのがトルコのガラタサライ。イスタンブールの一角にあるトルコで最も古いこのクラブで、デアバルはドイツ流の戦術と動きの質と量を教えた。その成果は、就任の次の年のトルコカップ優勝、87、88年のリーグ連続優勝に表れる。この優勝を機に引退するが、次の年、彼の育てたガラタサライは欧州チャンピオンズ・カップのベスト4に進出して、全ヨーロッパにショックを与えた。
 この快挙はトルコ・サッカー界を勇気づけ他のクラブも西欧流のプレーに励み、代表チームにもドイツ人のゼップ・ピオンテク監督が起用された。1980年代のデンマーク代表をつくりあげたピオンテクは93年まで指導する。
 彼の下でアシスタント・コーチを務め、U−21代表を育成したのが、ガラタサライの名DFだったファティ・テリム。3年前から監督に就任したテリムは、代表を大幅に若手に切りかえ、欧州選手権の予選でスウェーデン、ハンガリーなどを抑えて、スイスとともに“予想外”の出場を遂げたのだった。

 クロアチア戦のトルコ・チームの年齢を見ると、30歳=1、28−29=3、26−27=1、24−25=5、24歳未満=3人――となっている。
 ヨーロッパでもっともアジアに近い、このトルコの代表の未来を、しばらく見つめたい。O君と語りながら、わたしはそう思うのだった。


(サッカーマガジン掲載)

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